137 / 191

第137話

「おやすみ」 消灯時間になって前髪を撫でられ、その感触で目覚めたら、ロールカーテンの隙間からまばゆい光が洩れていた。 「おはよう」  稜而は少し長い前髪をさらりと揺らして遥に微笑みかける。 「稜而、帰らなかったのん?」 「帰ったよ。家で寝て、ついさっき出勤した。遥に早く会いたかったから、朝カンファレンスまであと二時間あるけど」  稜而はすでに青色のスクラブを着ていた。首の周りにペンダントのチェーンが見える。 「遥ちゃん、一気に目が覚めたわ! さあ、遥ちゃん、顔を洗うのよ! おーいえー!」  遥は百均で新調したふわふわヘアターバンで前髪を上げると、ぬるま湯でざぶざぶと顔を濡らし、牛乳石けんを洗顔ネットでこんもり泡立て、顔に乗せる。 「♪はるかちゃんとりょうじは、うぉううぉううぉううぉう! いつでもなかよし、いぇいいぇいいぇいいぇい! あいしあっているのよ、うぉううぉううぉううぉう! ダンス! ダンシング いーじゃなーい!」 顔の上でくるくる泡を広げると、ひゅーひゅー! とお尻を左右に振って踊ってから、泡を洗い流し、入汲温泉のおばあちゃんが一升瓶で送ってくれたヘチマ化粧水でパッティングする。仕上げにホホバオイルを肌に馴染ませて、柘植の櫛で髪を梳くと、キャベツ色のシュシュで髪を束ねた。 「今朝も可愛いよ、chenille(シュニーユ=芋虫)」  稜而が頭を撫でると、遥は首をすくめ、母親に舐められる仔猫のように笑った。  朝食はトーストとコーンポタージュ、リンゴジュースだった。 「ジャムもマーガリンもないのん?」 遥は皿を持ち上げて探し、朝食に添えられた献立票に『術前食、マーガリンなし』という記載を見つけた。 「なんでマーガリンなし、なのかしらん?」 「さあ? なんでだろう?」  首をひねっていたとき、ドアがノックされて、えんじ色のスクラブを着た、背の高い男性が、ぬっと部屋の中へ入ってきた。 「渡辺さん、おはようございます。麻酔科医の星と申します」 関西方面のアクセントで挨拶されて、遥はお辞儀をした。 「ご、ごきげんよう……」 「朝ご飯のところ、すんません。手術中にかけるCDをお預かりしてなかったみたいで」 「あ、執刀医の先生のお好みで結構ですのん」 遥は両手のひらを上に向け、指先を揃えて稜而を指した。 「俺は歌詞が入っていなければ何でも。星先生の好きな音楽でいいよ」 「では、そうさせてもらいます。……稜而先生の、弟さん?」  星は、黒髪の稜而と、ミルクティ色の髪を持つ遥を見比べた。 「はいなのん。両親が再婚して、連れ子同士ですのん」 「あ、立ち入ったことを。すんません」 「平気。たぶん整形外科のスタッフなら全員知ってるし、まったく隠してない」 「前回の入院がきっかけで、両親が再婚しましたのーん。家族みんな仲良しですのん!」 「家族が仲良しなのは、ええですね」 星は左右の口角だけ上げ、一礼しかけて顔を上げた。 「オペは午後からなんで、昼は絶食です。食事は六時間前まで、水やお茶は二時間前までにしてください。多量のカフェインを含む飲み物は今日は控えてください。回復具合によっては、夕食は術後食が出せると思います」 「そういえば、術前食って、マーガリンがつかないんですのん?」  遥が献立票を見せると、星はその内容を見て頷いた。 「脂肪分は胃の滞留時間が長くなるんで、入ってないんですわ。術後食も消化のいいものからということで、やっぱり入らないと思います。内臓が麻酔から覚めきってないとあかんので」 「胃に食べ物が滞留してたら、ダメなんですのん?」 「麻酔薬には吐き気を催すものもあります。吐き気止めは一緒に入れますけど、一〇〇パーセント確実とは言い切れません。万が一術中に胃の内容物が逆流して肺に入ると、誤嚥性肺炎につながるんで、ダメっちゅうことにさせてもろてます。固形物に関しては、具体的にどの食品が何時間くらい滞留するかという明確なエビデンスはまだないんですけど、経験則で六時間前から絶食がスタンダードです」 「ふうむ、納得したような気がしますのん。今日一日は、油分はホホバオイルを塗って補給しますわ」 「一日くらい、脂肪分が摂取できなくても、遥の美肌には大きく影響しないと思うよ」 稜而が笑うと、星も何となく話を合わせるように左右の口角を上げ、一礼した。 「今日は、大谷と一緒に麻酔を担当させてもらいます。よろしくお願いします」  そう言って、部屋を出て行った。 「……今の星先生って人、絵本でお見かけする、青鬼さんみたいなのん。背が高くて、目つきが鋭くて、改造した学ランを着て釘バットなんて持ったら完璧なんだわ」 「ひどいな。俺は誠実な先生だと思ってるけど」 くすくす笑って、コンビニで買ってきたおにぎりを頬張る。遥もいただきますと手を合わせ、トーストをコーンポタージュに浸しながら、朝食を食べた。 「整形外科の先生がいて、麻酔科の先生がいて。膝と足首をちょっと切るだけって、そんなに大変なことなのかしらん?」 「大変だと思ってるけどな、俺は。もし麻酔せずに人の足をメスで切ったら、ただの傷害だよ。下手したら殺人だ」 「言われてみればそうだわー」 「ちょっとした局所麻酔は自分でやるけど、全身麻酔なんてとんでもない。麻酔科医がいなかったら、外科医は手も足も出ない」 稜而は頭を左右に振り、さらに言葉を続けた。 「俺は誰に嫌われても気にしないほうだけど、遥と麻酔科医にだけは嫌われたくない」 「麻酔科医って、強いのん」 「遥が麻酔科医になったりしたら、最強だね」 「ふふっ、麻酔科医になろうかしらーん!」 遥はミルクティ色の髪を振って笑った。

ともだちにシェアしよう!