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第138話
次に星が現れたのは、昼前だった。
頭には不織布製のヘアキャップをかぶり、鋭い目は花粉症対策のような透明なゴーグルで覆われていて、遥の顔を見て鼻と口を覆っていたマスクを引き下げた。
目つきは相変わらず鋭いが、白い歯を見せて、人懐っこくニカニカっと笑う。
「緊張してへんかー?」
手に持っていた銀色のトレイをテーブルに置くと、ベッドサイドにしゃがんで遥を見上げるように話した。
「兄が手術してくれるんですもの。気持ちは大船に乗ってるんだわ。♪こーのふねーにのってゆけー! りょうじのてでこいでゆけー! はるかがなおって、よろこぶものに、はるかの、あーしをまかせるぞー♪」
遥は背中を起こしているマットレスをソファの背もたれに見立て、ふちに両手を掛けて、足を組んで、顎を上げた。
「ええなぁ、兄弟で仲がよくて。俺なんか出来のいい兄貴と要領のいい弟に挟まれて、居場所がのうなって、東京まで出てきてしもたわ」
「関西のご出身ですのん?」
「静岡や」
「……え。静岡って、関西弁?」
思わず身を乗り出した遥に、星はニッと笑う。
「全然ちゃうで。中学高校の六年間だけ関西におったんや。俺の関西弁はにわか やけど、東京弁はもっと喋れへん。せや、ちなみに大学は甘木医大やで。如月組なんやろ? 俺もや」
「おーいえー、先輩ですのん」
「先生、元気か?」
「たぶん元気だと思うのん。夏休みに入ってからは、こぶたさんですのよ」
「仔豚?」
「仔豚じゃないですのん。こぶたさんですのん。しばらく連絡したり、お目にかかったりしてないことですのん」
星はしばらく斜め上を見てから、口を開いた。
「それ、『ご無沙汰』やないのんか?」
遥は優雅に小首を傾げた。
「……Sorry? Could you please repeat that ?」
「ご・無・沙・汰」
星はテーブルの上にあった麻酔同意書の控えの端に、『ご無沙汰』と書いて見せた。遥は文字を見て、ゆっくり目を見開いた。
「Oh mon dieu ! お沙汰が無いんだわー! 勘定奉行、しっかりしてほしいのん!」
「勘定奉行?」
「……ち、違ってるかしらん?」
「おそらく、大間違いや。ラファエルちゃんが言いたいのんは、北町奉行か、南町奉行やろ。勘定奉行が沙汰を言い渡す時代劇は見たことないで」
「Mon dieu, mon dieu……。拙者、日本語かたじけないのん……。帰国して二年、誰も何も言わなかったのよおおおお」
遥はテーブルの上に突っ伏した。
「言いたいことは何となくわかるでぇ。さらっと言われて、皆、聞き流してたんやろなぁ。……ほら、ほら、気持ちが穏やかになる薬やでぇ」
銀色のトレイに入っているシリンジ を見せられて、遥は力なく頭を振った。
「この程度の慰めに、そんな薬はいらないのん。日本語の勉強を続けますのよ」
「ただの麻酔前投薬 や。……あれ、ルートとってないんか?」
遥の左右の前腕を掴んで確認する。
「ルート?」
「静脈点滴の管、入ってないんやな。待っとき」
病室を出て行き、すぐに戻ってくると、追加の道具を銀トレイの中へ置いた。
「自分、利き手はどっちや? 右か。なら、左に穿刺してええな? アルコールで肌がかぶれたこと、ないか?」
手袋を嵌めながら質問されて、遥は胸を張り、顎を上げてからしっかり頷く。
「お酒は強いんですのん」
「今度、飲みに行こうな」
話しながら遥の前腕を数か所指先で触って場所を決めると、上腕をゴムチューブで締めて、アルコール綿を取り出し、中心から外側へ渦巻き状に皮膚を拭く。
「おーいえー」
「親指を内側に入れて握って。少しチクッとするで」
プロテクターが外された注射針には、リボン型の持ち手がついていて、それを二つ折りにし右手の親指と人差し指でつまんで持つと、左手で遥の手を掴み、親指で皮膚を引き下げながら、慎重に針を押し進める。
「堪忍な」
「いいえ」
深く刺してから少し引き戻すと、血液が逆流した。
「よし、楽にしてええで」
言いながら、上腕を締めていたチューブを外し、遥の穿刺部を薄いフィルムで覆うと、チューブを湾曲させて緩みを作り、テープで腕に固定して、針から伸びるチューブの反対側の端にある三方活弁にシリンジをつなぐ。
「ちょっと血管が冷たい感じがするで」
シリンジを少し引いて、三方活弁内の空気を抜いてから、改めてシリンジを押して透明な液体を注入し始めた。
「ペパリーンローック!」
星は突然そう言うと、まだ注入しながら、三方活弁の向きを変える。
「へ?」
「血液の凝固を防ぐために、チューブの中をペパリンで満たして、陽圧を掛けてロックするんや。ペパリンロックて言うんやけど、言葉の響きがかっこええやん?」
「おーいえー、ペパリーンローック! ふふっ、カッコイイのん!」
「せやろ? ……あかん。ルートだけとって、肝心の薬を入れ忘れたわ」
星は遥のフルネームを確認し、手首のバンドとシリンジに貼られたバーコードを赤外線リーダーで読み取ってから、改めて薬剤が入ったシリンジをセットして注入した。
「ペパリンフラッシュもしとこな」
もう一度ペパリンのシリンジを持ってくると、ペパリンロックと全く同じ動作を繰り返した。
「ペパリーンフラーッシュ!」
「何が違うのん?」
「薬剤をチューブ内から洗い流すのが、フラッシュ。今はロックもするんやけどな」
「薬を入れて、それだけじゃダメなのん?」
「薬の成分によっては、長い時間、針に薬剤を留めておくと静脈炎を起こすことがあるんや」
使ったものをすべて銀色のトレイに片付けると、星は立ち上がった。
「ほな、オペ室で待ってるで。ほななー!」
星はニカニカっと笑いながら身体を横に傾けつつ敬礼して見せた。
「おーいえー! ほななー!」
遥も鏡映しに身体を傾けながら、笑顔で元気よく敬礼を返した。
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