138 / 191

第138話

 次に星が現れたのは、昼前だった。  頭には不織布製のヘアキャップをかぶり、鋭い目は花粉症対策のような透明なゴーグルで覆われていて、遥の顔を見て鼻と口を覆っていたマスクを引き下げた。  目つきは相変わらず鋭いが、白い歯を見せて、人懐っこくニカニカっと笑う。 「緊張してへんかー?」 手に持っていた銀色のトレイをテーブルに置くと、ベッドサイドにしゃがんで遥を見上げるように話した。 「兄が手術してくれるんですもの。気持ちは大船に乗ってるんだわ。♪こーのふねーにのってゆけー! りょうじのてでこいでゆけー! はるかがなおって、よろこぶものに、はるかの、あーしをまかせるぞー♪」 遥は背中を起こしているマットレスをソファの背もたれに見立て、ふちに両手を掛けて、足を組んで、顎を上げた。 「ええなぁ、兄弟で仲がよくて。俺なんか出来のいい兄貴と要領のいい弟に挟まれて、居場所がのうなって、東京まで出てきてしもたわ」 「関西のご出身ですのん?」 「静岡や」 「……え。静岡って、関西弁?」 思わず身を乗り出した遥に、星はニッと笑う。 「全然ちゃうで。中学高校の六年間だけ関西におったんや。俺の関西弁はにわか(・・・)やけど、東京弁はもっと喋れへん。せや、ちなみに大学は甘木医大やで。如月組なんやろ? 俺もや」 「おーいえー、先輩ですのん」 「先生、元気か?」 「たぶん元気だと思うのん。夏休みに入ってからは、こぶたさんですのよ」 「仔豚?」 「仔豚じゃないですのん。こぶたさんですのん。しばらく連絡したり、お目にかかったりしてないことですのん」 星はしばらく斜め上を見てから、口を開いた。 「それ、『ご無沙汰』やないのんか?」  遥は優雅に小首を傾げた。 「……Sorry? Could you please repeat that(もう一度繰り返して頂けますか)?」 「ご・無・沙・汰」 星はテーブルの上にあった麻酔同意書の控えの端に、『ご無沙汰』と書いて見せた。遥は文字を見て、ゆっくり目を見開いた。 「Oh mon(my) dieu(god)! お沙汰が無いんだわー! 勘定奉行、しっかりしてほしいのん!」 「勘定奉行?」 「……ち、違ってるかしらん?」 「おそらく、大間違いや。ラファエルちゃんが言いたいのんは、北町奉行か、南町奉行やろ。勘定奉行が沙汰を言い渡す時代劇は見たことないで」 「Mon dieu, mon dieu……。拙者、日本語かたじけないのん……。帰国して二年、誰も何も言わなかったのよおおおお」 遥はテーブルの上に突っ伏した。 「言いたいことは何となくわかるでぇ。さらっと言われて、皆、聞き流してたんやろなぁ。……ほら、ほら、気持ちが穏やかになる薬やでぇ」 銀色のトレイに入っているシリンジ(注射器)を見せられて、遥は力なく頭を振った。 「この程度の慰めに、そんな薬はいらないのん。日本語の勉強を続けますのよ」 「ただの麻酔前投薬(ますいまえとうやく)や。……あれ、ルートとってないんか?」 遥の左右の前腕を掴んで確認する。 「ルート?」 「静脈点滴の管、入ってないんやな。待っとき」 病室を出て行き、すぐに戻ってくると、追加の道具を銀トレイの中へ置いた。 「自分、利き手はどっちや? 右か。なら、左に穿刺してええな? アルコールで肌がかぶれたこと、ないか?」 手袋を嵌めながら質問されて、遥は胸を張り、顎を上げてからしっかり頷く。 「お酒は強いんですのん」 「今度、飲みに行こうな」 話しながら遥の前腕を数か所指先で触って場所を決めると、上腕をゴムチューブで締めて、アルコール綿を取り出し、中心から外側へ渦巻き状に皮膚を拭く。 「おーいえー」 「親指を内側に入れて握って。少しチクッとするで」  プロテクターが外された注射針には、リボン型の持ち手がついていて、それを二つ折りにし右手の親指と人差し指でつまんで持つと、左手で遥の手を掴み、親指で皮膚を引き下げながら、慎重に針を押し進める。 「堪忍な」 「いいえ」  深く刺してから少し引き戻すと、血液が逆流した。 「よし、楽にしてええで」 言いながら、上腕を締めていたチューブを外し、遥の穿刺部を薄いフィルムで覆うと、チューブを湾曲させて緩みを作り、テープで腕に固定して、針から伸びるチューブの反対側の端にある三方活弁にシリンジをつなぐ。 「ちょっと血管が冷たい感じがするで」 シリンジを少し引いて、三方活弁内の空気を抜いてから、改めてシリンジを押して透明な液体を注入し始めた。 「ペパリーンローック!」 星は突然そう言うと、まだ注入しながら、三方活弁の向きを変える。 「へ?」 「血液の凝固を防ぐために、チューブの中をペパリンで満たして、陽圧を掛けてロックするんや。ペパリンロックて言うんやけど、言葉の響きがかっこええやん?」 「おーいえー、ペパリーンローック! ふふっ、カッコイイのん!」 「せやろ? ……あかん。ルートだけとって、肝心の薬を入れ忘れたわ」  星は遥のフルネームを確認し、手首のバンドとシリンジに貼られたバーコードを赤外線リーダーで読み取ってから、改めて薬剤が入ったシリンジをセットして注入した。 「ペパリンフラッシュもしとこな」  もう一度ペパリンのシリンジを持ってくると、ペパリンロックと全く同じ動作を繰り返した。 「ペパリーンフラーッシュ!」 「何が違うのん?」 「薬剤をチューブ内から洗い流すのが、フラッシュ。今はロックもするんやけどな」 「薬を入れて、それだけじゃダメなのん?」 「薬の成分によっては、長い時間、針に薬剤を留めておくと静脈炎を起こすことがあるんや」 使ったものをすべて銀色のトレイに片付けると、星は立ち上がった。 「ほな、オペ室で待ってるで。ほななー!」  星はニカニカっと笑いながら身体を横に傾けつつ敬礼して見せた。 「おーいえー! ほななー!」 遥も鏡映しに身体を傾けながら、笑顔で元気よく敬礼を返した。

ともだちにシェアしよう!