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第139話

 遥はナースに渡された薄緑色の手術衣に着替えた。不織布製の使い捨ての下着を穿き、両手を袖に通し、ガウンのように身体の前で重ねて内側と外側を一か所ずつ結ぶと、両手を横に広げ、左右に首をねじって全体像を見る。  肩から袖口まで一列に、さらには両サイドも、脇はすべてがスナップボタンで留まっていた。 「これ、ぶちぶちぶちって剥がせるのん。ばらばらにしたら、背中と、右前半分と、左前半分に分かれるのよー」 左袖のスナップボタンを外してみると、布が二枚に分かれて垂れ下がった。袖口の端を持つと、布が腕に添って垂れ下がる。 「おおー、これはオングさんができるのん! ♪ちゃららららら、ええじゃーん! はるかのそでー! すきなりょうじのっ、うでをしんじてっ、しゅじゅつしつでゆめをみぃぃぃるー。はーああー、うーあああー、はーあああー、うーああー、はるかのなーかで、おねむりな・さ・い!」 ひとしきり歌うと、左手を斜め上に、右手を肩の高さに広げてしばらく静止してから、正面に向かってうやうやしくお辞儀をして、ぷちぷちと袖のボタンを留め直した。 「ふうむ。これを着て、薄い使い捨てパンツでフルフルさせながらベッドの上に寝るなんて、なかなかえっちっちーだと思うんだわ! 稜而ってば、遥ちゃんのフルフルを見て、お仕事中にカッキーンってなったりしないのかしらん?」 首を傾げつつベッドに座っていると、ナースが車椅子で迎えに来て、遥は手術室へ向かった。  手術室の入口で不織布製のヘアキャップを渡され、髪の毛を全部押し込む。そこで手術室担当のナースに引き継がれて進み、銀色のドアが並ぶ緑色の廊下を進んで、一番端の手術室へ入った。 「お、ラファエルちゃん、まいどー!」 一番最初に声を掛けてくれたのが星だった。星はまたもや銀のトレイを手に、ごった返す手術室の入口付近を歩き回っていた。 「星先生、まいどー……」  遥は元気なく挨拶を返す。 「調子はどうや?」 「静かな気持ち。ちょっと眠いのん……」 「そうか。鎮静剤が効いてるんやな。名前の確認しような」 「渡辺遥ラファエルちゃんなのん」 「はい。ほんならラファエルちゃん、ベッドに座って、く・だ・さ・い~」 星は節をつけて言うと、バーコードリーダーを掲げて見せ、遥は患者識別バンドを巻いた手首を差し出しながら、フルネームと生年月日を口にする。 「BGMはジャズにしてみたんやけど、どう?」 耳を澄ませると、部屋の奥からビッグバンの豪快なスイングが聴こえた。 「ダイナミックでかっこいいのん」 「せやろ? 俺、スイ部やってん!」 「スイ部?」 「吹奏楽部や。ラッパ吹いててん」 星は旋律を口ずさみ、直後に真剣な表情で近くのナースとダブルチェックして、注射器に薬液を吸い上げた。 「遥さん、ご気分はいかがですか」 スクラブにヘアキャップ、マスク姿の大福先生がふくふく笑いながら現れた。 「落ち着いてます。元気です」 寝たまま答えると、ふくふくと頷いた。 「それはよかった。リラックスが大切ですからね」 話しているところへ、稜而が入って来る。不織布のヘアキャップをかぶり、目はスポーツグラスのようなゴーグルで覆っていて、まだ青いVネックのスクラブ姿だった。 「ときどき声掛けながらやっていくから。頑張ろうな」 少し早口に話し、遥と握手するときの手の力も強く、ふうーっと大きく強く息を吐くと、モニター画面の前へ行く。  画面には遥の両足のレントゲン写真が映っていて、同じく青色のスクラブを着た小柄な女性と、大柄な男性と何かを話す。ボールペンを持ち、画面の一部を芯が出ていない先端で囲んだり、斜めにあてたりしていた。 「ほな、やろか。ベッドの上に横向きに寝てください。お注射の時間やでー!」 大福先生が背後に立ち、星が椅子に座って、遥はナースに肩を支えられつつ、星に背を向け横向きに寝た。 「顎を胸につけて、背中丸めて」 「んぐぐぐぐ」  後頭部を押すナースの手が強引で、遥はくぐもった声を上げながら背を丸める。 「消毒するさかい、ちょっと冷たいで。堪忍え」 手袋を嵌めた手で何度も背骨の数を数えられ、大福先生が「そうですね」という声が聞こえてから、ガーゼに含まれた消毒液が、ベチャッと腰椎に押し当てられ、そこから同心円状に外側へ、一方向に塗り広げられていく。  そこへ、がさがさと水色の紙のようなものが貼りつけられ、さらにがさごそ音が聞こえて、何かひらりと白い紙が落ちるのを、すっと遥を押さえつけているナースの足が蹴り上げるように拾って、そのまま足で器用に白い紙をゴミ箱へ突っ込んだ。 「足癖が悪いでしょう? ここにいると、すぐに誰でもこうなってしまうんです」 大福先生のふくふくした声が聞こえ、周囲の大人たちの空気が和んだとき、また星の手が遥の背中に触れた。 「皮膚の麻酔しますー。ちょっとチクッとするで」 星が黙り込み、穿刺の痛みを感じた。 「んっ」 「痛かったか?」 「腕の注射より痛いのん」 「堪忍なぁ」 「おーいえー……」 「皮膚に麻酔したから、もうそんなに痛くないはずや。麻酔の注射、するで。あったかい感じがするはずや」 「おーいえー」 大福先生と星が何か小声で会話しているのが聞こえ、遥も釣られて耳を澄ませると、声よりも先に『シング・シング・シング』が聞こえてきた。 「ラファエルちゃん、足、痺れてへんか?」 「だいじょぶ」 「あったかい感じ、するか?」 「んー。使い捨てカイロを貼ってるみたいなのん」  仰向けになって、心電図や血圧計などのモニターが取り付けられ、胸元に緑色の布で衝立が作られて、差し出した人差し指に酸素飽和度を計測するクリップがつけられたとき、稜而が胸の前で腕をクロスさせてどこかから入ってきた。  薄い水色のガウンを着て、ヘアキャップに透明なグラス、鼻から下は不織布マスクで覆われて、両手は薄い手袋を嵌めている。 「あ。テレビみたい」 「似合うだろ?」 「うん」 「ラファエルちゃん、コールドテストするでぇ。冷たい感じ、するか?」 「しない」 左右の足を押されたり、触られたりする感触はあったが、冷たさは感じなかった。さらに何か所か撫でられて同じ答えをすると、大福先生が頷き、星が真面目な声を出した。 「お待たせしました。お願いします」  稜而にさらに足を触られて質問され、しつこく氏名と術式を確認されて、そこからは意識がふわふわした。  枕元に星が座っていて、目が合うと、ヘアキャップとマスクの間に見える鋭い目がニッと細められたのを見たのを最後に、遥は眠った。 「見えたか?」 「見えました。あー、いけるかな。……よかった。いける、いけます。ごめん、それいらなかった」 身体に振動が伝わって、人々が話す声が聞こえ、ガタガタと足が揺れて、誰かが 「先生、フルスイングでいかないと」 と言った。 「……やきゅう?」 遥は乾いた唇を小さく動かし、またすぐふわふわと眠ってしまった。  目覚めたとき、遥は動くストレッチャーの上にいて、ストレッチャーを押す数人のうちの一人が星だった。 「おはようさん。自分の名前言えるか?」 「マルタン…………、じゃなくて、渡辺。渡辺遥ラファエル。……マルタンは、前の名字」 「そうかぁ。手術終わったで。稜而先生、丁寧に縫ってくれはってたで」 「んー……。寝てもいい?」 「ええよ。お疲れさんやったな」 「おーいえー……。星先生、麻酔してくれて、ありがとうなのん」 「どういたしまして。ええ子やなぁ」 遥は動くストレッチャーの上で、吸い込まれるように眠りに落ちた。

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