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第140話

 遥は病室のベッドに一人でいた。 「喉、乾いた……」 手探りでナースコールを押して、また眠った。 「あら、寝てる」  ナースの声は聞こえているのに、眠気を吸って重たくなった布団にのしかかられているような感覚で、遥はうめき声を上げ、かろうじて動く指先をばたつかせた。 「あらあら、元気がいいわねぇ」 「んあーっ(そんな評価は求めてないのーん!)」 覆い被さってくる眠気にあらがって、遥は腹の底から声を出す。 「みずーっ!!!!!」 「え、水? 飲めるかなぁ。先生に確認するね」 ナースはPHSを取り出し、耳に当てる。 「うー(まじかよ、前の手術のときは、そっちから水を持ってきたじゃんか)』  そのうちにまた寝てしまって、軽やかな声が聞こえてきた。肩に手が添えられている感触もわかる。 「ラファエルちゃん、まいどー! 聞こえとるかなぁ?」 「うう……水……」 「水、飲みたいんやな? それはわかったで」 星は布団の中へ手を差し入れて、遥の太腿や脛に触れた。 「触ってるの、わかるか? 俺の手が温かいのもわかるか? つま先も触るで。わかる?」 すべてに遥が頷くと、星はまた枕許にしゃがんで、左手首のミリタリーウォッチを見た。 「時間も充分過ぎてるし、水を飲むのはええねんけど。……ただなぁ、寝ぼけたまま、水を飲むのは心配やねん。肺に入ったらつらいことになるで。飲むなら、そのときだけでも、しっかり目ぇ覚まさなあかんえ」 「ん……。起きる……。ぬがーっ! 起きたっ!」 遥は両手の親指と人差し指で、強引に上下のまぶたをセパレートした。  ヘアキャップをかぶり、マスクを顎の下に押し下げた星の顔が視界に入った。 「頭は、痛くないか? ほな、ゆっくりベッド起こそうな。ストローで飲めるかぁ?」 「飲むっ!」 両まぶたを強引にセパレートしたまま、星が口許へ差し出してくれたストローに食らいつき、じゅうじゅうと水を吸った。 「ゆっくりにせぇ、ゆっくりに……。焦らんでええからな」 遥は紙コップの底まで水を飲み尽くし、ほっと息をついた。 「寝る」 「へぇへぇ、おやすみなさい。……今日は夕食は我慢しような。水は気をつけて飲むならええで」 「んー……」 「ラファエルちゃん。水が飲みたいときは、ナースコール押しなさい。ええか?」 「ん。ナースコール。水」 「せや。ええ子やな」 遥の意識はまたそこで途切れ、廊下を行き交う雷鳴のような配膳車の音で目が覚めた。 「い、いでででででで……?」 鼻から大きく息を吸って深呼吸し、枕の上で頭を左右にローリングしていたら、ドアが空いて、聞き慣れた声がした。 「お疲れ様。お加減は?」 言いながら、まっすぐ遥の足許へ行き、布団の裾を捲り上げる。  一日中ヘアキャップをかぶっていた髪は乱れ、集中していたであろう目は充血していた。 「痛いのん。……ちょ、痛いって言ってるのに、なんで触るのーん!」 「ごめん、ごめん」 まったく悪いと思ってない声で言うと、足の指の先を指先で摘んだり、ボールペンの先でつっついたりして、遥に感覚を確かめた。 「麻酔、だいぶ切れてきたかな。切ったし、出血もしてるから、痛いのはしょうがないんだけど。痛み止めは、我慢しないで飲んでいいからね」 「飲む! 今すぐ飲む!」 「飲水許可出てるっけ?」 「水! ナースコール! 星先生! 言った!」  稜而は部屋から出ていき、大きな銀のトレイを持って戻って来ると、錠剤を一つ、遥の名前を確認してから手渡す。 「カルテを見たら、飲水許可が出てた」 冷蔵庫からペットボトルを取り出し、ストローキャップに付け替えて手渡す。 「そう言ったのん。遥ちゃんの言葉、信じてないのん?」 「だって、術後は麻酔でぼんやりして、遥が聞き間違えてる可能性もありうるから」 稜而はそう言いながら、再び布団の裾を捲る。 「ガーゼ、交換しておこう」 防水シートを敷き、手袋を嵌めると、ガサゴソする気配と感覚があって、そら豆型の銀トレイにベチャッとガーゼが載せられた。 「ひいいいい」 白いはずのガーゼが、茶色から赤まで様々な色の血液をたっぷりと吸い込んでいた。 「ごめん、見えた?」 「なんでそんなに血が出てるのーん」 「ボルトを引き剥がしたから、骨に穴が空いてるんだ」 「骨から出血……。骨折の悪夢、再びなのよー!!! また太腿まで腫れ上がるんだわー!!!」 「痛いのは今夜だけだよ。今夜はさっさと寝たほうがいい。寝ればわからないから」 「雑! 雑なのん!」 充血した目を弓形に細めて笑う稜而に、むきーっと犬歯を剥き出していると、ドアがノックされて星が入って来た。 「ご兄弟で水入らずのところ、失礼します。さっき、だいぶ眠そうやったんで、どうしたかなと思いまして」 「ありがとう。お願いします」 ガーゼ交換を終えた稜而が、手袋を外しながらうんうんと頷いた。 「ラファエルちゃん、まいどー!」 星は敬礼して身体を横に倒しながらニカニカっと笑い、遥も敬礼を返した。 「星先生、まいどー!」 遥の返礼に笑みを浮かべたまま、ベッドサイドにしゃがむ。 「調子はどうや?」 「あんよが痛いのん」 「そうかぁ。それは辛いなあ」 星は眉根を寄せ、遥の言葉にゆっくり頷く。 「そこの整形外科医は、寝たらわからないから、寝ろって言うのん」 遥が指さすと、稜而は小さく舌を出して応戦した。 「稜而先生のおっしゃることは、本当やで。眠ったら、痛みはわからんようになる。カルテに痛み止めを飲んだって書いてあったけど、何時頃飲んだん?」 「今、これから飲むところなのん」 「せやったか。水はあるか?」 「入汲の水! 入汲のおばあちゃんがお見舞いにって、一ダースもくれたのん」 おーいえー! と、ストローキャップに付け替えたペットボトルを見せる。 「よかったなぁ。飲んだら、きっと元気になるなぁ」 「おーいえー! きっとそうなのん!」 遥は痛み止めを口に放り込むと、ぎゅうっと入汲の水を吸い上げた。 「薬が効き始めるまで、遅くとも三〇分間の辛抱や。それまでテレビを観たり、お兄さんとお喋りしたり、何か楽しいことをして、気を紛らわせるとええなぁ」 星の言葉に、稜而が口を開いた。 「俺は今日はもう上がりだから、消灯までここにいるよ。寝かしつけてから帰る」 「わかりました。……ラファエルちゃん。今夜は薬を使ってでも、しっかり寝たほうがええで。睡眠と疼痛は関係するんや。不眠症の診断基準のひとつに、日中、痛みを強く感じるっちゅう項目があるくらいや。逆にぐっすり眠ると疼痛が緩和されることも知られてるんやで。だから消灯まで待たなくてもええ、今夜はしっかり寝なさい。ええな?」 「はいなのん!」 遥はしっかり頷いて、それから少し考えて口を開いた。 「同じ『痛いときは寝ろ』なら、遥ちゃんは麻酔科の言い方のほうが好きだわ! 今まで考えてなかったけど、これからは麻酔科も候補に入れるのん!」 「おおきに。ラファエルちゃんが来てくれるのを、待っとるでぇ」 星はまたニカニカっと笑った。

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