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第141話

 稜而は右手の中指で、遥の尻の間にある窄まりを探る。 「ゆっくり口で呼吸して、力を抜いて」 遥は毛布を抱えて横向きに寝て、胎児のように丸くなり、言われたとおりに口呼吸をする。 「んっ」 稜而の指が深く侵入して、遥は身体を震わせた。 「気持ちいい?」 いたずらっぽい稜而の問い掛けに、遥は苦笑いして首を横に振った。 「全然なのん! とにかく痛みから逃れたい一心なのよー……」 消灯後の病室で、稜而は痛み止めの坐剤の挿入を終えると指を引き抜き、しばらく窄まりを指の腹で押さえながら、そっと遥の肩をさすった。 「入ったかな。もし出てきたときは、すぐに教えて」 「おーいえー……」  稜而が使い終えた道具をスタッフステーションへ片付けに行って、戻ってくると、遥は仰向けになって目を瞑ったまま、静かにしていた。  稜而はベッドサイドに座って遥の顔を見つめ、遥に手探りで求められるまま、指を絡めて手をつなぐ。 「ここまでつらい思いをさせると思わなかった」 しょんぼり呟く稜而に、遥は目を閉じたまま小さく笑う。 「油断してたのん。骨折したときほど痛くないっていろんな人から聞いてたから。でも、考えてみたら包丁でちょっと指を切ったって痛いのに、足を左右二か所ずつ、骨に達するまで切ってるんだもの、痛いに決まってるんだわ」 「そうだね……」 「それにしても、痛いってとにかくつらいわー。一気に人生がつまらなく感じるのん」 「ああ」 遥は稜而の手をきゅっと握った。 「ねぇ、痛いの痛いの飛んでけってして」 「痛いの痛いの飛んでけ」 稜而は遥の頬にキスをした。 「ふふっ。お口にも!」 「痛いの、痛いの、飛んでいけ」 唇に唇が重なって、ようやく遥は目を開けた。稜而は遥の目を見つめる。 「愛してるよ、遥」 「遥ちゃんもよ。稜而、愛してるのん」  遥は睡眠薬も追加して飲むと、稜而に前髪を撫でてもらいながら入眠して、そのまま朝までぐっすり眠った。 「傷の状態もよさそうだね。歩行許可を出しておくから、麻酔科の先生が来たら、指示に従って歩行を開始して。バルーンカテーテルも抜いてしまおう」 稜而は起床時間と同時に病室へやって来て、左右の膝と足首にある傷を調べると、遥が恥ずかしがる間もなく、するっと管が抜く。 「ふあっ?!」 遥は一瞬目を閉じて頬を赤くしたが、すぐ笑顔になった。 「おーいえー! すっきりー! ♪はーるかちゃんっ、きーらきらとっ、いーいおとこでしょっ! みかけより、 つーくすタイプねー! おーしりにさーおさして、りょうじずるいわー! いーちゃうの、よーなかのベッドー♪」 仰向けに寝たまま、首を左右に振り、両手を振り上げて踊る。 「何という替え歌。朝の病室が一気に夜のスナックだ……」 稜而は苦笑いしながら抜去したカテーテルや蓄尿バッグを片付けて歩き、遥が「スナックってどんなところー?」と訊いていたとき、星が入ってきた。 「あ、おはようございます。昨日の夜、結構痛そうやったんで、どうしたかなと思って、顔を見に来ました。あのあと、痛み止めを追加しはったんですね」 「うん。心配してくれてありがとう。今、歩行許可を出したし、バルーンも抜いたよ」 「そうですか、早いですね。ほな、離床しよか」 稜而の返答を聞いた星は、ニカニカっと遥へ笑いかけた。 「ラファエルちゃん、まいどー!」 「星先生、まいどー!」 二人は鏡写しに身体を横へ曲げて敬礼した。 「術後、いろいろ気をつけるべきことはあるんやけど、その一つが血栓なんや。特に術後初めてベッドから立ち上がったときと、トイレに行ったときが、一番注意せなあかんねん。だから、今、俺がいる間にトイレに行ってきてくれへんか」 「はーいなのーん! ♪ぴゅっぴゅっ、だしてー、しまえばいいのー! ぜんぜん、しな…………♪ いでででででで」 ベッドから足を下ろして立ち上がった瞬間、遥は歌うのを止めた。 「えっ?」 青ざめた顔をする稜而と星に、遥は首を横に振る。 「ち、違うのん。皮膚がひきつれたのん。いでででで。……ゆっくり歩くのでいいかしらん?」 「もちろんや。転ばないようにするんやで」  遥は強風に立ち向かうように、そろそろと一歩ずつ交互に足を踏み出し、トイレに入っていった。 「ひ、膝の屈伸も、足首の屈伸も、ちょいと痛いんだわ……。い、いでででで」 手すりに掴まってそろそろと腰を下ろし、最後はドスンと便座に座って、ちょっぴり用を足すと、また「いでででで」と立ち上がって、トイレを出た。 「大丈夫やったか?」 「おーいえー……」 早くもげんなりしている遥の足の運びを、稜而は真剣な目で観察する。 「今日一日、院内フリーにするから、それでちょっと様子を見て。ウチ、二階だし、階段だからね。階段の上り下りができないと、家に帰るのも難しい」 「はいなのん……、もう疲れたのよー……。骨折のときもこんなことしたなって、思い出したのん」  手の甲でふうっと額の汗を拭いて、遥は眉尻を下げながら笑った。 「ラファエルちゃん、おならは出てるか?」 「おーいえー!」 遥は顎の下で両手を握りこぶしにすると、お尻を突き出して風船の空気が抜けるような音を立てた。 「お、上手いなぁ。俺も得意やでぇ!」 遥と同じポーズをして空気を震わせる音を立て、胸を張る。 「自在に出せるのはええでぇ! 患者さんにおならを促すのに、率先しておならできるさかい」 「おーいえー! もっとおならの練習しておくのん!」 「内臓が動かないと、食事も始められないし、おならは大事だ」 稜而は胸の前で腕を組み、うんうんと頷きながら、空気を引き裂くような豪快な音を立て、遥と星はゲラゲラ笑って、稜而は一緒に笑いながら窓を開けた。 「おならして笑えるって、健康で平和で幸せなのーん! 尊いんだわー!」

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