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第142話

 膝丈の甚平を穿き、左右の膝と足首に血が滲む大きなガーゼを貼って、手すりに掴まり、さながら登山家のように小股で一歩一歩、廊下を進む。 「そこに廊下があるから、遥ちゃんは進むんだわ……コンビニへ登頂するまで、諦めないのん……七月限定、チョコミントパフェを食べるのよ……。あ、いでで。いでででで」 エレベーターに乗り込むと、途中の階から後ろを確認しないまま、車椅子のハンドルを握り、後ろ向きに下がって入ってきた中年女性がいて、遥の足の甲を思いっきり踏んだ。 「ひいっ! ……す、すみません、僕、足を手術したばかりなんです。お手柔らかに」 「あら、そんなに大変なら、ギプスでもしておけばいいのに」 「む、むきーっ! そうじゃないでしょう。ごめんなさいが先なのん! 後ろに下がるとき、少し確認しましょうよ!」 「そんな危ない状態で出歩くほうが悪いんでしょ。大人しくしてなさいよ。やーねー、気分悪いわぁ!」 「はあ? ちょっと、一旦エレベーター降りましょうか? 非常ボタン押す? どっちがいい?」 ぐっと上半身を前に突き出した遥の両肩を、がっしりと掴まれた。 「はいはい、そこまで。非常ボタンを、そんな簡単に押したらあかんえ。……ここは病院です。体調の悪い方が多くいらっしゃいますので、どうぞ互いに思いやりの気持ちを持って、行動してください。……さ、ラファエルちゃん、着いたでぇ。降りような」 両脇の下へ両手が差し込まれ、ひょいと持ち上げられて下ろされた。 「むかつくのーん!!!!!」 「へぇへぇ。おにいさんがアイス買うたげようなぁ」 「七月限定、チョコミントパフェーっ!!!!!」  コンビニでチョコミントパフェを二つ買って、リハビリ公園の藤棚の下にあるベンチに並んで座った。 「なのーん、とか言うてる割に、案外、気ぃ強いところあるんやなぁ」 「遥ちゃん、口げんかは負けないし、負けても最後っ屁だけはしてやるのん! ♪まけないのん、くちげんか、さいごには、おならもするのん! どんなにはっなーれててもっ、においはそっばーにあーるわー! おいーかけーて、かすかなにーおいをー♪」 「俺はそういう気骨のある子は、好きやけどなぁ。自分、集団行動は苦手やろ?」 「心の傷に触れないでほしいのん。日本の小学校になじめなくて、フランスへ高飛びしたんだわ」 「せやったんか」  星はチョコミントの渦をプラスチックスプーンで大きく掬って口に入れる。その隣で遥は、チョコミントを食べたスプーンを舐め舐め話した。 「本当のことを言うと、日本のお医者さんになれるか、ちょっぴり不安なのん。避難訓練も、防災頭巾もない国で育っちゃったのよ」 「麻酔科が一つの診療科として独立したのは戦後や。歴史が浅いから、気風としてはリベラルやで。オペ場に麻酔科医は常に一人や。スタンドプレーヤーとして動ける人材が求められる。ラファエルちゃん、本当に向いてるかも知れへん」 「星先生、集団行動は苦手じゃなさそうなのん」 「得意でもないで。ある程度はテクニックや。寮生活やったし、吹奏楽部やったし、ペース配分は鍛えられたと思うで」 「そういうものなのん」 「人懐っこい子ぉやし、心配はいらんと思う。麻酔科を選んでくれたら嬉しいけどな。どの診療科へ行くにしても、いいお医者さんになってな」 星はニカニカっと遥に向けて笑った。 「星先生は、どうしてお医者さんになったの?」 「高校時代に付き合ってた一学年上の彼女が、東京の医学部に入ったから、俺も行こうって。単純な理由や」 「あらーん。愛ゆえなのーん」 「ま、上京して同棲したはええけど、ある日、飲み会に行かずに家に帰ったら、ベッドの上に知らない男と一緒におったでぇ」 「た、たまたま、一緒にベッドの上に転んじゃっただけかも知れないのん」 「二人とも裸で、彼女が男の腰を跨いで、ずっぽり結合してたで」 「……な、なんとお慰めしてよいか」 「そんなことがあっても、人間は立ち直れるし、医者になれるで。ラファエルちゃんも、おきばりやすー」 遥は眉尻を下げて笑いつつ、チョコミントアイスを口に入れた。

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