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第143話*

「麻酔科はリベラルな気風で、スタンドプレーヤーだって」 遥は夕食を食べ終えて、いででででと呻きつつ、洗面台の前で歯を磨く。稜而も隣に並び、一緒になって口の中で歯ブラシを動かしながら、遥の話に笑った。 「なるほど。しっかり麻酔科を売り込まれたな」 口の中の泡を吐き出すと、両手に水を汲んで口をすすぎ、タオルで拭った。 「整形外科はリベラルじゃないのん?」  口をすすいだ遥が、稜而が使っているタオルの反対の端で口を拭いながら首を傾げると、稜而は鏡越しに爽やかな笑顔を見せた。 「整形外科も、風通しはいいと思うよ。麻酔科と比べると、圧倒的に男性の割合が高いから、男子校のようなノリもあるかな」 「ふーん。稜而は、男性が多いから整形外科に行ったのーんんんんんん?」 遥は口を拭く手を止め、横目でじっとり稜而を見る。稜而は慌てて手と首を横に振った。 「待って、待って。それは違う! そんな下心で決めて、やっていけるような仕事じゃないから。やりがいがある、面白いと思えるから、整形外科を選んだんだ!」 「ふうん……。まぁ、過去を問うのは不毛だって思うから、そういうことにしておくのん」 遥は唇を尖らせながら、タオルの小さなループを一つ一つ見る。 「待ってくれ。本当だってば!」  稜而が慌てた声を出すと、遥はちらりと横目で見てから、顎を上げて目を閉じた。 「正しい発音で『Je t’aime de tout mon coeur.(心から君を愛してる)』って言って、遥ちゃんのほっぺにちゅってしてくれたら、信じるんだわ」 「ジュ テーム ドゥ トゥー モン クール!」 稜而は遥の頬にキスをしたが、遥は目を閉じ、顎を上げた。 「全然ダメー! Je t’aime de tout mon coeur、なのん!」 「Je t’aime de tout mon……クー。ウ、エ、オ……。くぇーる、くぉーる……」 「稜而、だいぶフランス語を覚えてきたのん。発音も上手だけど、 [œ]は日本語にはない母音だから、ちょっと難しいと思うわー。遥ちゃんへの愛の力で乗り越えてくださいなのよー」 「そういうことか」 稜而はタオルを引っ張って、反対の端を握っていた遥を引き寄せ、そのまま自分の胸に抱いた。 「Je t’aime de tout mon、クール。どう? キスしていい?」 「まだまだ、ダメなのん」 「もう一回お手本を聞かせて」 遥の口許へ耳を近づけ、稜而は発音を促す。 「Je t’aime de tout mon coeur.」 「もう一度」 「Je t’aime de tout mon coeur.」 「あと一回」 「Je t’aime de tout mon coeur.」 「三回も繰り返して言われるなんて、俺、愛されてるね」 稜而は遥の頬にキスをした。 「ずるいのん! 言わされたのよー!」 「遥だって言わせてるくせに。……Je t’aime de tout mon coeur.」 遥の耳に口をつけて完璧な発音で愛の言葉を囁くと、稜而は遥の頬にキスをした。 「今日はシャワーは我慢して。その代わり清拭(せいしき)をしてあげる」  遥を軽々と抱き上げ、ベッドに横たえると、稜而は真っ白なドクターコートの裾を翻して病室を出て行き、いくつもの蒸しタオルを銀トレイに載せて戻ってきた。 「お客さん、こういう店は初めてー?」 稜而は裏声で話しながら、タオルを振って温度を調整する。 「店? 客?」 「風俗嬢が客に対して、アイスブレイクに使う台詞……って言われてるけど、どうなのかな?」 「なんで今、そのジョークなのん?」 「プレイの前に蒸しタオルで身体を拭くから、らしいよ」 「稜而は言われたことがないのん?」 「ゲイが風俗店へ連れて行かれたって、どうにもならない」 「行ったことはあるのん?」 遥の抜かりない質問に、稜而は素直に頷いた。 「うん、学生時代に一度だけ、OBに連れて行かれた。自分は本当に同性愛者なんだと思い知った瞬間だったよ」 蒸しタオルから上がる湯気を見ながら、言葉を続けた。 「それまでは、自分は男子校の出身だから、同性に対するハードルが低いだけで、その気になれば女性とだって関係を持てるって、心のどこかで信じていたんだ。だから、自分の心も身体も反応しなかったことは、とてもショックだった」 稜而の言葉に、遥は深く頷く。 「ゲイは差別されるべきものじゃない、少数派なだけで、自然に存在するものだと知っていても、自分の中の偏見に気づく瞬間ってあるのん」 「そうだな。でも、そういうあまり楽しくない思い出も『遥に出会った瞬間に、過去は全部忘れた』っ!」 稜而は遥の頭を抱えると、防水シートを敷き、首の後ろに筒状に丸めた蒸しタオルをあて、頭を大判の蒸しタオルで包んで、さらに洗顔用の蒸しタオルを両目の上に置いた。 「ほわああああ。気持ちいいのーん……」  蒸しタオルの上から、指先や手のひらを使って丹念に頭皮を揉みほぐされて、遥はうっとり目を閉じる。 「はあっ、こんなことされたら、ますます稜而に懐いちゃうのん」 「いいよ、いっぱい懐いて」  頭皮と髪を丹念に拭きあげると、洗顔用の蒸しタオルで遥の顔に触れた。タオルの端が遥に触れないように気をつけ、拭くたびにタオルの面を替えて、遥の薄い皮膚を拭う。 左右の耳や、耳の後ろまで、稜而は顔を近づけて丹念に拭くと、遥は左右の口角をきゅっと上げた。 「昇天しそうなほど、気持ちいいのん」 「いいよ。いかせてあげる」 稜而は遥の頬にキスをした。 「え?」 遥は目を丸くして、稜而を見た。 「溜まってない? 楽にしてあげる」  稜而は目を弓形に細めると、甚平の合わせ目に手を差し込む。 「でもでも誰か来たら困るのん」 「『処置中につき、入室禁止』の札をドアに貼ってある。清拭のときはそうするルールなんだ」 「……用意周到なのん」 「病棟のルールに従ってるだけだよ」 遥の耳に囁く稜而の声はホットチョコレートのようにとろりとしていた。 「あーんってなってもいい?」 「いいよ。あまり丁寧にする時間はないけど。声は我慢して」 稜而はそう言うなり、遥の口を自分の口で塞いで、舌を送り込みながら、遥の甚平の紐を解いて、胸の粒へ指の腹を擦りつけた。 「んっ」  稜而の指の腹に擦られて、胸の粒から甘い痺れが全身へ波紋を広げる。 「稜而……っ」 片方の粒をつまんで揺すられながら、反対側の粒を口に含まれ、ころころと舌先でなぶられて、快感はさらに強く全身へ染み渡っていく。 「あっ、稜而」 遥の切羽詰まったような声に、稜而は刺激を強め、遥の全身に快感が満ちていく。 「い、いく。稜而。あ、あ、稜而、稜而っ!!!」 遥は背を浮かせ、身体を波打たせてから、ゆっくりと弛緩した。

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