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第151話
「ひゃあああああっ! やっちまいましたのーんっ!」
翌朝のリネン庫で、遥は頬を両手で押し潰した。
「あら、どうしたの? 伝票が違ってた?」
先輩のおばさんの声に、遥は束ねたミルクティ色の髪を左右に振った。
「伝票は合ってますのん。遥ちゃん個人のミスですのん!」
「あら。ミスなら早めに言ってよ」
「パンツをお風呂場に干したまま、ここへ来ちゃいましたのーん! 今頃、家政婦のむにさんが、そのパンツを見つけてるんじゃないかって心配なんですのよー!」
「家政婦さん? 家政婦さんなら、男の子のパンツくらいで動揺することはないんじゃない?」
「普通の男の子パンツなら、遥ちゃんもそう思いますのん。でも……でも.......。いいえ、これ以上はお教えできませんのん。セクハラになりますのん。遥ちゃんは気を取り直して、お仕事に邁進しますのん……。むにさん、家政婦のお仕事を辞めるって言わないといいですけど……。今日は、何がなんでも残業ナシで帰りますのんっ!」
遥はぎゅっと目を瞑って自分の頬を両手で叩くと背筋を伸ばし、足を肩幅に、両手を上にあげて、「ふんぬ、ふんぬ」とラジオ体操第二の頑張るポーズをして気合いを入れると、にぃ、しぃ、ろく、よいしょーっ! とリネンの束をワゴンに積んだ。
「精神科病棟って、緊張するのん」
ワゴンとともに乗り込んだ職員用エレベーターの中で、遥はそっと不安を打ち明ける。
「P科 (精神科=Psychiatryの略称)だって、自分の病気と向き合って、闘っている人たちの場所よ。この時間は外出している患者さんも多いし、ほかの病棟よりむしろ静かなくらい」
透析ルーム、外来化学療法ルーム、周産期センター、緩和ケア病棟、治験病棟、人間ドック、事務局、理事長室、総師長室などが入る本部棟に、精神科・心療内科病棟はあった。
職員用エレベーターを降りると、医局と書かれたドアがあり、通路を抜けてスタッフオンリーと書かれたドアから病棟へ足を踏み入れて、まず遥は病棟内を見回した。
暖色の間接照明に、優しいベージュ色の壁紙、ライトグレーのタイルカーペット。陽光差し込むデイルームで雑談する人たちは笑顔で、リストバンドをしていなければ、患者とはわからない人がほとんどだった。
「あら。噂に聞く殺伐としたふいんきとは違いますのん」
遥が廊下の天井の数か所に監視カメラが設置されているのを見上げ、ニッコリ笑顔を作って手を振っていたとき、女性の声が聞こえた。
「かーんごーふさーん! 出ーしてーっ! かーんごーふさーん! 出ーしてーっ!」
スタッフステーションに一番近い個室から聞こえ、止めても止めてもナースコールのメロディーが鳴り響き、アラーム音が鳴り響いていたが、ナースたちは落ち着いた様子だった。デイルームで談笑する人たちも大きく動揺する様子はない。
「だ、大丈夫なのかしらん?」
「大丈夫とは言いがたいけど、一日に使える薬の量は決まってるから仕方ない。夜、落ち着いて眠れるように逆算すると、今の時間帯は薬を使えないんだ。今の症状が落ち着くまで、あと二週間ってところかな。アルバイト頑張って、遥ちゃん」
糊の効いたワイシャツの第一ボタンを外し、ノーネクタイでドクターコートを着た三十代半ばとおぼしき男性は、遥にそう説明すると、前下がりのボブカットで顎まである長い前髪をさらりと揺らし、切れ長な目を弓形に細めた。
遥はその男性の透き通るような美しさに息を呑み、切れ長な目で顔を覗き込まれて息を吹き返した。
「あ、あの、あの、ごきげんようございますのん。ええと……、拙者、かたじけないことに、お名前を覚えきれておらぬのでおじゃります。よろしければ、拙者に名前を教えてたもれませなのん」
遥が早口で言うと、男性は薄い唇を左右均等に引いた。
「拙者は精神科医の渡辺玲而 と申します。稜而の従兄でおじゃる。精神科に興味があったら、いつでも案内するから、声を掛けてたもれ」
玲而は儚げな印象の割に、しっかりとした笑顔を浮かべ、遥は両手を胸の前に組んだまま、ぴょこんと頭を下げた。
「ご親切に教えてくださって、ありがとうございますなのん」
「どういたしまして。稜而にもまた遊びにおいでって伝えて。遥ちゃんもよければ一緒に遊びにおいで」
両手を膝の前に揃えてお辞儀していた遥の肩を、先輩のおばさんが叩いた。
「さて、始めましょう」
「はいなのん!」
遥はマスクと手袋を身につけて入室したが、個室には誰もおらず、まず二重になっているサッシ窓を開けた。
「あれ? あれ? 窓がつっかえるのん」
内側の窓は自由に開くのだが、外側の窓は少し開けたところでレール上の何か突っかかるような感覚があり、それ以上は開かなかった。
「一〇センチ以上は開かない決まりなのよ。両側を一〇センチずつ開けてちょうだい」
「なんで開かないのん?」
「患者さんの安全を守るためよ」
「患者さんの安全って……?」
そのときまた「かーんごーふさーん! 出ーしてー!」という声が聞こえてきて、遥は納得した。
「もしどうしても部屋から出たくなって、この窓から出たら、一階と二階の間のコンクリートの屋根に叩きつけられて即死なのん。頭や身体が通るほど開いたらダメなんだわ」
遥は束ねたミルクティ色の髪をふるふる振って、枕カバーを交換した。
先輩のおばさんは、掛け布団を足元にかきよせて包布 を外すと、表面を内側にして埃や汚染が拡がらないようにしながら、ひとかたまりにまとめた。
シーツの表面も外側から内側へ巻き込むように、静かにまとめて回収し、遥はローラー式の粘着テープで、剥き出しになったベッドパットの表面をころころと掃除する。
「♪くっつけ、くっつけ、くっつけ、ローリング、テープに、テープに、テープに、はりつけ、ゆーれて、ゆられて、ゆめのベッドは、たいようのかなたっ♪」
「古い歌を知ってるわねぇ」
「おーいえー!」
遥は左右の手を身体の前で交互にひらひらさせて軽く踊ってから、粘着テープを腰のホルダーに戻して、清潔なシーツをベッドの中央に置いた。ぱたぱたぱたとまずは縦に展開して、それから先輩のおばさんと一緒に左右へぱたぱたと広げる。
「秘技、シーツ縛りっ!」
遥はそう言うと、軽いマットレスの上半分を抱え起こし、シーツで覆ったあとの左右の両端を、マットレスの後ろで固結びにした。
「たった一日で、ずいぶん上手になったわよ」
「先輩のご指導のたからものなのん」
電動で背中を起こせるベッドの場合、ただ角を三角にして折り込んでいるだけでは、寝起きを繰り返すうちにシーツがずれてくる。リネン交換のスタッフが試行錯誤した結果、マットレスの後ろで左右の両端を固結びにする方法が編み出されたらしい。
「遥ちゃん、皆さんが試行錯誤なさったというお話と、編み出されたこのやり方に、とても感動しましたのん! ぜひともリネン交換をしたいって思いましたのん!」
バイト採用面接のときの志望動機を繰り返して口にし、サイドと足元にのシーツをシワを伸ばして深くしっかりマットレスの下へ押し込んだ。
シーツの角の部分は三角に折って押し込んで、美しく真っ白なシーツが敷けた。
「おーいえー!」
次に清潔な包布をベッドの上に広げる。
この病院の包布はサイドではなく、正中に切れ目があり、結ぶ紐がついている。
「掛け布団カバーは横から出し入れするのが一般的と思ってましたのん」
「自宅用はそうだけど、病院では包布の中に手や足が入って患者さんが転倒しないように、真ん中に結び目があるのよ」
むき身になった布団を広げた包布へ入れ、四隅を合わせて、表側の中心に縦に並ぶ紐を順番に結んだ。
「病院って、いろんなことがよく考えてあるんだわー! 稜而にも教えてあげるのん! ……でもでも、まずは残業ナシで帰らなくちゃいけないのん! パンツ危機を乗り越えなくちゃなのよー!」
遥は新人とは思えない手際のよさを発揮して、病棟内のリネン交換を終え、ストックの補充をし、使用済みリネンを不潔リネン庫へどさどさ置いて、控室でのお茶とお菓子とおしゃべりは我慢して帰宅した。
坂道を駆け上がり、ジョンの家の角を左折し、ロートアイアンの門を抜けてコデマリが植わるアプローチを抜けて、玄関ドアを開け、内階段を駆け上がって、寝室側からバスルームへ飛び込んだ。
「ないっ! ないのーん! バスルームぴっかぴかにお掃除済みなのよー!」
きょろきょろしていたら、ふかふかに洗い上げたタオルを運ぶ、家政婦のむにさんに声を掛けられた。
「何か探し物ですか?」
「ひゃあっ、むにさんっ! ごめんなさいなのよー。バスタブの上に干してた、おパンツ……と、ベビードール……」
「それでしたら乾いていたので、下着の引き出しにしまいました」
朗らかに言われて、遥は引き出しに飛びついた。黒く透ける布が、いつものボクサーブリーフの上に載せられていた。
「あ、ありがとうございますのん……」
「可愛いランジェリーですね。そういうの、いいと思いますよ。ランジェリーを集めるのって、楽しいですよねぇ」
「そ、そうですね……なのん……」
むにさんは、何か楽しそうな歌をハミングしながら、タオルを棚にしまっていて、遥はいつもと変わらないエプロンのリボンの縦結びを見ながら、胸を押さえて息を吐いた。
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