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第156話

 玲而の部屋で人形に囲まれながら寿司を食べた一週間後、遥は再び精神科病棟でリネン交換に精を出していた。ミントグリーンのユニフォームも少しずつ身体に馴染んできた。  一週間経っても 「かんごーふさーん! 出ーしてー!」 という声は相変わらずだったが、今日は楽しそうな歌声も聞こえていた。先週と比べて状態が改善しているのかどうかはわからないが、少なくとも歌いたくなるような楽しい感覚が混ざってきたのかなと、胸の内で勝手な解釈をした。 「♪かーなーしーみのあめがやみー、きーぼーうーのそらーのしたで、きれいなリネンでベッドメイク、はるかのてでシーツつかんでー♪」  さてこれからリネン交換、というときに、先輩のおばさんのPHSが鳴動した。 「先輩、〇印のベッドは遥ちゃんが一人でやっておくのん。事務所へ行ってきてくださいませませ」 「そぅお? お願いね。すぐ戻ってくるから」 准看護師の資格を持つ先輩のおばさんと違い、無資格の遥は患者の介助ができないので、自力での離床と歩行が可能な患者のベッドだけ、リネン交換をして歩いた。 「我ながら、手際よく順調に進んでますのん」 病棟をほぼ一周進んでスタッフステーションの近くへ戻ったとき、男性の声で呼び止められた。 「おい、お前リネン交換だろ?」 「はい」 振り返ると三十代後半と思われるナースだった。ケーシータイプの白衣に紺色のラインが入っているので、名札を見なくてもナースであることだけはすぐにわかる。 「こっちのリネン交換やって」 個室のドアが開けられると、しわがれた男性の声がした。 「お願いします。お願いします……」  院内の売店で売られているガーゼ素材の寝巻を着た老人は、皺だらけの手を擦り合わせて拝んでいた。  遥はベッドから漂う臭いですぐに状況を理解し、廊下に停めてあるワゴンへ引き返すと、手袋を二重に嵌め、大きなビニール袋を手にしてベッドサイドへ行った。 「こんにちは。シーツを交換させていただきます」 患者の視界に確実に入るように顔を出し、はっきりと大きめの声で話し掛けると、老人はまた手を擦り合わせた。 「お願いします、お願いします……」 掛布団を外すと、遥の予想に反して内側は濡れていなかった。 「?」 そっと鼻を近づけてみると、すでに乾いた尿の臭いがする。 「掛布団もお持ちしますね。まずはシーツ交換をしたいんですが。……すみません、僕はまだ学生なので、介助ができないんです」 遥は振り返り、壁により掛かって腕組みしている男性ナースに話しかけたが、男性ナースは鼻で笑った。 「そんなもん、誰がやったって変わんねぇよ」 「でも……」 「俺、今、腰が痛いんだ。監督してやるから、お前がやれよ」 「はあ」 老人の寝間着ははだけていて、紙おむつはぱんぱんに膨らんでおり、内腿の皮膚が赤くなっていた。さらに観察すると、背中に乾き始めた便がこびりついている。 「手順を教えて頂けますか」 舌打ちの音が響き、老人の身体が震えた。  騒ぎを起こすか、堪えるか。遥は一瞬、ナースコールを押してやろうか、あるいはドアを開け放って大声で人を呼んでやろうかとも考えたが、騒動が収束するまで老人が汚れたおむつを穿いたまま、背中に漏れた便をつけた状態で多くの人の中で過ごすのは、あまりにも辛いだろうと思って、ぐっと腹に力を入れた。 「四月に学生になったばかりで、まだ実習も始まっていないんです。教えてください、お願いします」 「そこの棚を開けると、全部入ってる」 顎で示された棚から、言われるとおりにビニールシートと吸水シート、液体石けん、シャワーボトル、おしりふきシート、陰部清拭用の紺色のタオル、汚染廃棄用ビニール袋を取り出した。 「ビニールシートと吸水シートを敷いたら、側臥位に寝かせて、シートで拭けるだけ全部拭き取る」  言葉はぶっきらぼうだったが、教え方そのものは丁寧で、遥は老人に必要以上の負担を掛けることなく、我ながらさっぱりしたと思えるほどきれいに陰部洗浄をすることができた。  椅子への移乗のさせ方も教わり、皺一つなくベッドを整え、老人を寝かせて、その寝巻も裾を引っ張って皺を伸ばし、清潔な掛け布団を掛けると、老人の表情は明らかに柔らかくなった。 「ガイジンさん、いつ国に帰るんだい?」 「ずっと日本にいる予定です」 「ウチのカミさんが寿司を持ってくるから、あとで食べなさい」 「お気持ちだけいただきます」 遥が笑顔で答えると、氷柱のように冷たい声が飛んできた。 「カミさん、とっくに死んでるだろ。ボケじじい。クソまみれのクソが。早く死ね」 「は?」 「早く死ねって言ってるんだよ。自分がどれだけ迷惑を掛けているかを自覚して、死・ん・で・く・だ・さ・い」 遥の脇から顔を突き出し、老人に向かって目を見開き、言い放った。 「それってどういうことですか」 「家族に迷惑を掛けて、生きていても意味がねぇだろ。死ね、バーカ」  遥が気色ばむと、また鼻で笑った。 「こいつ、何言ってもわかんねぇよ。お前もナースになるなら覚えておくと便利だ。理不尽な目に遭うことが多い仕事だからな。ストレスは、こういう患者相手に吐き出せ」  遥は小さく深呼吸をしてから、口を開いた。 「はい、覚えておくようにします。教えてくださって、ありがとうございます。僕は、渡辺遥ラファエルといいます。お名前を教えて頂けますか」 若草色の目を細めてニッコリと笑いながら、遥は男性ナースの名札を自分の目にしっかり焼きつけた。

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