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第157話
老人の病室を出たとき、事務所から先輩のおばさんが戻ってきた。
「こちらのお部屋のシーツ交換は終わりましたのん。失禁されて、あの男性のナースの方に呼ばれて、教えて頂きながら交換しましたのん」
男性ナースを視線で示したが、先輩のおばさんの反応はごく普通で、要注意人物とも何とも言われなかった。
「きっと先輩の前では、普通のナースなんですのん……」
やり残していたベッドのリネン交換をすべて終え、遥は先輩のおばさんを手伝って、スタッフステーションの裏にある処置室へ入った。オフィスの給湯室のようなシステムキッチンと、冷蔵庫、タオルを温める保温庫、備品が入ったスチールの棚、食事介助のためのテーブルと椅子、洗面台などが揃っている。
先輩のおばさんに教わりながら、ストック棚に清潔なタオルを色別に分けて積み上げ、使用済みのタオルは回収し、清拭用のタオルを濡らす。
「タオルのふちは肌を強く擦るから、内側、内側に畳むのよ」
「はいなのん」
何十枚もまとめて濡らしたタオルを横長に置き、一枚ずつ中心に向かって上下の両端を折り、さらに半分に折って細長い横長にしてから、左右の端を中心に向けて折り、さらに半分に折ってビニール袋へ入れ、保温庫に積み上げる。
黙々と作業していると、たまにナースが入ってきて、冷蔵庫の中にそれぞれの名前を書いて置いているペットボトル飲料で水分補給する。
「いつもありがとうねー!」
ねぎらってくれるナースには、遥も笑顔で挨拶をする。
「最近固く絞ってない? もうちょっと緩いと助かるんだよねー。汚れが強いところは、水分多い方が拭きやすいからさー。うるさくてゴメンね。お願いしますー」
相手を気遣いながらの注文には、明るく素直に頷いた。
何も言わず処置室へ入ってきて、水分補給をすると深呼吸を一回、ぐっと背伸びをして、「頑張ろ」と小さく呟き、処置室を出て行くナースもいる。遥はその背中に「頑張ってくださいなのん」と小さく声を掛けた。
処置室のドアはスタッフステーションに向けて開いていて、ナースコールのメロディやさまざまなモニター音、スタッフ同士の会話も聞こえる。
「うーん、○○さん、ちょーっと気になるんだよねー。ドクターに直接話したほうがいいかも。玲而先生、今の時間は外来?」
「いえ、医局にいるんじゃないかな……。うん、いると思います。呼んでみる?」
「呼んでくれるー?」
玲而の名前が出て、遥の耳がナースたちの会話に向いていたとき、薬品棚の裏側、処置室のドアとのあいだに二人の女性ナースが立った。
「あのさぁ、質問しなきゃ、自分が何をしたらいいか、わからないんじゃないの?」
厳しい声が聞こえて、遥は身体を強張らせた。
「あんた、今まで何を勉強してきたわけ? わからないんなら質問しなさいよ。何度言ったら質問できるようになるの?」
「すみません、お忙しそうだったので」
返事をする声はか細く震えていた。
「忙しいなんて当たり前でしょ、あんたみたいな仕事できないのがいるんだから」
突き刺すような言い方をして、追い討ちをかけるように溜め息をつき、言葉を続ける。
「……もうさぁ、こんなに仕事できないんだったら、辞めてもらったほうがマシなんだよね。いつ辞める? あんたがいなくなれば、仕事できる人を採用できるんだから。さっさと辞表出してよ」
物陰に隠れて相手をなじり続ける様子に、遥は息を吸って振り返りかけたが、
「遥ちゃん、立ち入ったことはしちゃダメよ」
先輩のおばさんに小声で制されて、仕方なく鼻からむふーうと息を吐いて作業を続けた。
病棟での作業を終え、地下の不潔リネン庫の中で、遥は先輩のおばさんに訊いた。
「ああいう意地悪な注意の仕方って、よくあるんですのん?」
「よくあるとは言わないけど、珍しくはないかな。限られた時間の中で、神経を使って患者さんに対応しているときにペースを崩されれば、苛立ちも募るでしょう」
「ふうむ」
「私たちは出入りの業者で、病院はお客様だからね。前後関係もわからず、いきなり話に割って入っていくようなことはできないのよ」
「株式会社渡学会クリーンサービスの代表取締役と、医療法人社団渡学会の理事長は、同一人物なのん。気になることがあったら言ってみれば、病院まで伝わるんじゃないかしらん?」
「確率は低いと思うよ。遥ちゃんから社長まで、何人の人を経由すると思う? アルバイトの遥ちゃんから契約社員の私、私からリネンのチームリーダー、チームリーダーから主任、主任から課長、課長から部長、部長から大咲支店長、支店長から取締役、取締役から社長に伝わるのよ」
数えた数字は八人で、遥は溜め息をついた。
「八人で伝言ゲームしたら、『お元気ですか』が『お便器ですか』くらいには変化しちゃいますのよ……」
「社長まで正しく伝わったとして、理事長から大咲ふたば総合病院の院長、院長から看護師長、看護師長から副師長、副師長から病棟師長、病棟師長が主任と連携して、さりげなくスタッフたちから話を聞いて、本人の様子を観察して、それから本人に話すだろうけど、本人たちが何をどう返事するかはわからないよ」
「その頃には『お便器ですか』は『おペンギンですか』に変化して、張本人が『違います、人間です』って返事したら、『そうですよね、そう思ってましたよ。あなたをペンギンだなんて、遥ちゃんは変なことを言う子ね』って、遥ちゃんが怒られて、全部解決したことになっちゃいそうですのん。このルートでお話ししても、本人に届けるのは難しいってわかりましたのん」
遥は苦笑して、お疲れ様でしたと不潔リネン庫を出た。
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