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第164話
翌日、遥はシフトより一時間早く病院へ行き、外来棟を歩いた。
天窓のガラスを通す光は、厳しい夏の日差しすら和らげ、病気や怪我や付き添いで疲れている利用者に優しい光を届けてくれる。
「パパ、遥ちゃんは今日も元気ですのん!」
遥は天窓に向かって両手を振り、ツインテールに結ったミルクティー色の髪を揺らすと、外来棟の端にある院内図書館へ入った。
院外処方に切り替えて使わなくなった薬局の待合スペースを本棚で囲い、机を置いていて、派遣会社から派遣された司書が座っている。
並ぶ本は極端に専門的か、初歩的かの両極端で内容はあまり充実していないが、二ヶ月に一度発行されている広報誌はバックナンバーが揃っている。
「今日の目的は大咲ふたば総合病院広報誌『ふたばの風』のバックナンバーですのん。♪ぜんぜんぜんかい、こうほうし、イチローさがしはじめるのん♪」
遥は過去の三月・四月号だけをピックアップし、新入職員紹介コーナーを見る。そのページは大咲ふたば総合病院に新規採用された正規職員が顔写真つきで紹介されている。
「見つけましたのん。①山田一郎、お役所の記入見本にいらっしゃる有名人と同姓同名なのん。②あら、すぐ近くにある看護大学をご卒業! ③人にされて嫌なことはしない。……素晴らしい座右の銘をお持ちなのよ。でも……ぐぬぬ……。④スイーツ食べ歩き。遥ちゃんも好きだわ! お友だちになれそうなのん!」
遥はぴょんと一回飛び跳ねてから、同じページに見知った顔を見つけた。
「あーん、キャベツぅ! ①渡辺稜而、②東京大学医学部、③一意専心、④冒険の旅に出ること。……ふふっ、この冒険の旅は村人にお話を聞いて、ツボを割って歩くやつなのん。愛してるんだわ、キャベツ!」
ぴょんぴょんと二回跳ねると、遥はロッカールームへ行き、ミントグリーンの制服に着替える。
リネン庫からシーツと枕カバーを一枚ずつ持ち出し、精神科病棟へ行くと、ストレッチャーのシーツと枕カバーと毛布を勝手に交換して整えた。
いつもよりゆっくり作業しつつ、病棟の中を見回す。
「あらーん、玲而先生が調べて教えてくれたシフトは変更になっちゃったのかしらーん?」
遥は首を傾げてから、両手をパーにして口の前で広げた。
「……違うのん、あの病室にいるんだわ!」
棚から取り出した予備のシーツを手に、昨日一郎と出会った病室のドアをノックした。
「失礼します、リネン交換です。予備のシーツをお持ちしましたのん」
やはり一郎はベッドサイドにいて、相手が遥だとわかると険しい目を反らし息を吐いた。
「よくおやすみになってますのん」
老人はところどころ歯の抜けた口を開けて眠っていた。
「こんな時間に寝られたら迷惑なんだ。夜中に起きて騒ぐ」
そう言いながら、胸ポケットのナースウォッチを見る。
「優しいんですのん。ちょっとは寝かせてあげるんですのん」
「別に、サボりたいだけ」
窓際の壁に寄り掛かり、一郎は窓の外を見た。
「遥ちゃんもここでサボらせてくださいませ」
一郎が立つ窓辺に並び、一緒に窓から外を見下ろす。
直下のアスファルトの道路に沿って、向かい側に調剤薬局が何軒も並び、どの薬局にも絶えず人が出入りしている。
「ナースのお仕事って大変って思いますのん」
「そう思うなら、ナースになるのは止めた方がいい」
「はいなのん。遥ちゃんは、ほかのお仕事を目指しますのん。でもでも一郎さんはナースをお辞めにならないんですのん?」
一郎は答えず、しばらく窓の外を見てから、憎々しげに呟いた。
「この病棟にいる奴らは、皆、キチガイなんだよ」
遥は静かにその言葉を聞いた。
「コイツもそう。定年まで真面目に会社勤めして、退職するときには取締役にまでなってて。奥さんは専業主婦で家庭を守って、子どもたちはそれぞれに家庭を持って、孫にも恵まれて。これから楽しもうってときに、認知症。財布がない盗まれたって騒いで、家に帰るって家から出て行って、自分の大便をトイレの壁になすりつけて。奥さんが話し掛けても、奥さんが死んでもわからない。生きてる意味あんのかな?」
遥が若草色の瞳を向けたとき、PHSからメロディが流れた。
「死ね、クソジジイ」
吐き捨てて窓際から離れた一郎に、遥は急いで声を掛けた。
「御広敷茶寮 で、スイーツ食べ放題やってるのん! お仕事のあと行きませんかなのん!」
「御広敷茶寮?」
鼻で笑われ、遥は腰に手をあてた。
「遥ちゃんは茶道、御広敷 流を習ってますのん! 優先的に予約が取れる権利とコネクションをお持ちなんだわ!」
一郎はゆっくり目を見開いた。
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