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第165話

 御広敷茶寮(おひろしきさりょう)は、茶道御広敷(おひろしき)流本部の一画にある。  病院を出たら駅とは反対方向に国道に沿って進むと左手に緑の生い茂る小さな丘があり、その丘一帯が御広敷流本部の敷地だ。  少額の拝観料を支払えば、誰でも手入れの行き届いた広大な日本庭園と、庭園内に点在する趣の異なるいくつかの茶室、歴代の家元が収集してきた茶道具を展示する美術館を拝観できる。 「スイーツ食べ放題の予約時間まで余裕があるから、お散歩なのーん。大人一枚くださいなー! 遥ちゃんは同門(どうもん)会員ですのん!」 遥は御広敷流同門会の会員証を提示して優待を受け、一郎の分だけチケットを買って手渡した。 「お付き合いしてくれる一郎さんに拝観料を奢るくらいのバイト代はもらってますのん。お気遣いなく!」  たった数百円の恩を押し付け、一郎の手首を掴んで美術館へ足を踏み入れる。  一階は茶道や流派の成り立ちが紹介されていて、遥はすらすら解説した。 「御広敷流は江戸時代に、大奥に閉じ込められた女性たちの気分を晴らす目的で始まったお作法ですのん。だからお茶を楽しむこと、楽しませることに重点を置いていて、もてなしの気持ちさえあれば、かなり奇抜と思える茶事も許されるんだわ! バレンタインデーにはココアを点ててどうぞってしてもいいし、ちっちゃい子は抹茶にお砂糖入れてもいいんですのん」 「気楽だな」 「大事なのは、お・も・い・や・り。思いやりですのん」  遥が足を止め、丁寧に合掌して頭を下げるのを、一郎は一瞥しただけで追い抜いて行く。 「あーん! 渡部遥ラファエル・クリステルちゃんなのーん! 待ってー!」  二階は茶道具の展示室で、重要文化財に指定されている茶室の実寸大模型が目を引く。 「あのお茶室は誰でも靴を脱いで上がっていいんですのん。初代家元の広広野(こうこうや)さんの気持ちになれて面白いんだわ!」 「好々爺?」 「おーいえー! のんびりニコニコなお爺さんだったらしいんですのん」  壁面には書画の掛け軸がずらりと並び、胸の高さのガラスケースには茶道具が収められている。遥はガラスケースに額がくっつきそうなほど顔を寄せ、若草色の瞳を前後左右に動かし、顔も左右に傾けた。 「ふむふむ、ふうむ! なるほどー。そんな気はしてましたけど、やっぱり…………全っ然わからないんだわー!」 ぷはぁっと顔を上げる遥を一郎は睨みつける。 「お前、本当に茶道を習ってるのか?」 「あーん、習ってますのん。週に二日、ウチのお茶室で。さらに駅ビルのカルチャースクールまで遠征することもありますのん。『御飾(おかざり)』のお許しまでいただいてるんだわ! でもでも、千円の茶碗と一千万円の茶碗の違いなんてわかりませんのん。『いい仕事してますねー』っておじさんしか、こんなの見分けられないと思うんだわー。♪ちゃらららららー、ちゃ、ちゃらららー、ちゃ、ずーちゃずちゃずちゃずちゃちゃー! いち、じゅう、ひゃく、せん、まん! 遥ちゃん評価額を超えませんでした! ひゅー♪」 遥が美術館の三つ折りのリーフレットを広げて頭上に掲げてる間に、一郎は出口に向かって歩いて行ってしまう。  遥は追い掛けながら、胸の前で握りこぶしを作った。 「ちくしょう、絶対お友達になってやりますのん!」

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