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第166話
美術館を出た一郎とその後ろを追い掛けてきた遥は、広大な日本庭園を歩く。
夏の盛りだが、緑陰と白糸のように流れる水、気持ちよさそうに泳ぐ錦鯉が、午後の暑さを和らげる。
遥は一郎の前に回り込んで、空に向かって両手を広げ、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「緑いっぱい、心が安らぐのん! ここは回遊式庭園なんですのん! 一周ぐるーっとまわって同じ場所へ帰って来れるのん。あの池の脇にある二つの岩が鶴さんと亀さん! 滝の脇にある縦長の石が鯉の滝登りのイメージなのん! それからここにアヤメ! 今は咲いてませんけど。松の木はご存知? 松ヤニはヴァイオリンの弓に塗り塗りしますのん。あっちは竹林! 傘をさして通れるくらいに間隔をあけてお手入れしますのん。お手伝いするとタケノコ頂けるんだわ! タケノコはお米の糠と一緒に茹でて冷ましますのん。それからそれから、あの蹲 ! お茶室へ入る前にお手々を洗うところですけど、あそこでお水を流すと面白いんですのよ!」
遥はまた一郎の手首を掴んでぐいぐい歩き、大きな岩をくり抜いた蹲の前へ連れて行く。
等間隔に黒い紐で支えられた細い竹筒の鋭く切った先端から絶え間なく水が流れこみ、蹲から溢れた水は側面を伝って下に敷かれた割石 の間へ流れ落ちていた。
「ポロン、ポロン、ポロローンって聴こえますのん! ほら! ほら! ね?」
「お前がうるさくて何も聞こえねぇよ」
遥は慌てて自分の口にチャックを閉める仕草をし、蹲に少しずつ注がれている水を柄杓でまとめて掬い、ごつごつした割石に流す。
地面から竪琴を掻き鳴らすような澄んだ音がいくつも湧き上がってきた。
「水琴窟 って言いますのん! この中に常滑焼の壺が逆さまに入ってて、雫が水面に垂れた音が壺の中に響くんですのん。それでそれで」
「お前、本っ当にうるさいな!」
一喝されて、遥のツインテールはたらんと垂れた。
「でもでも雨の日になったら、もっとたくさんの音がして賑やかで、傘をさしてお散歩に来たくなりますのん。お仕事大変なときは、おじいさんに怒ったりしないで、ここに来たらいいって、遥ちゃんは、そうお勧めしようって思ったんだわ……」
「余計なお世話だ」
一郎は踵を返し、茶寮に向かって歩いて行ってしまう。
「むきーっ! 遥ちゃんは、めげませんのん!」
肘を曲げ、左右の握りこぶしを交互に前に出しながら、地面をしっかり踏んであとを追った。
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