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第168話

 一郎の背中を見送ると、遥は両膝に手をついてアスファルトに向かって息を吐いた。 「マダムたちの喫茶店レジ前いいのよいいのよ私が出すわ大合戦と同じくらい戦いましたのん……」 起き上がってツインテールの裾を二つに分けてキュッと引っ張り、頭を振って巻き髪を元に戻したものの、遥の背中はまた丸くなった。 「スイーツ食べるのが二往復足りなかったから、糖分足りないのん。アンパン飛んでこないかしら……」  なかなか冷めないアスファルトの上を溶けそうになりながら歩いて病院の前を通りかかったとき、通用口から玲而と稜而が話しながら出てきた。 「遥、ずいぶん弱ってるね」  稜而が優しく眉尻を下げる隣で、玲而は穏やかに話し掛けた。 「どうだった?」 「スイーツ、三往復しか食べられませんでしたのん。そして騒音ちゃんって名前が増えたんだわ。遥ちゃんの気持ちは伝わらなかったのん。……せっかく『晩ご飯食べに来る?』って言うつもりで、稜而にカレーを作ってもらってましたのに。パトラッシュなのん」 かくんと項垂れた遥の肩を抱き、稜而は玲而の顔を見る。 「玲も一緒にどう、カレーライス」 「稜のカレーライスは美味しいから、ご馳走になろう」 病院脇の坂を上り、元気に吠えるジョンの家の角を曲がり、門を通りコデマリのアプローチを抜けて、自宅に到着する頃には、遥はさらにしおれていた。 「遥は風呂に入っておいで」  稜而にうながされて、遥はバスルームへ行き、バブルバスにとぷんと身体を沈める。  ツインテールをはずすと引っ張られていた頭皮に痛みを感じた。遥の目にはじわりと涙が浮かんで、泡立つ湯に潜る。 「泣かないのん。遥ちゃんにお友だちができないのなんて、いつものことなのん。変な子で、おしゃべりで、うるさいから。……わかってるのん。わかってるけど、これが遥ちゃんなのん。どうしようもないのん。相性なのよ、遥ちゃん! そういうときもあるの! 世界中の全部の人とはお友だちにはなれないのよ! うわぁーん! わかってるのーん! そんなことができたら、とっくにテロも戦争も全部全部解決なんだわー! 神様にも仏様にも難しいことよー! うわぁーん!」 タオルを引き寄せて顔を埋め、たくさんたくさん泣いてから、もう一度湯に潜って、ぴるぴると目の周りのお湯を指先で払い、全身を洗う。  鏡を見たら少し目の周りが赤くて、目薬をさし、水で濡らしたタオルを乗せて、アイクリームも塗った。 「どれが効き目あるかわかんないけど、どれかは効くんじゃないかって思うのん」  すんっと鼻を鳴らし、さらに棚をガサゴソ探すと、歌舞伎の赤い隈取がプリントされたフェイスパックを引っ張り出して、自分の顔に貼りつけた。 「これなら目の周りが赤いのは隈取だなって思うのん」  白い無地のTシャツと黒のハーフパンツを着てスマホを片手に 「しばーらく、しばるぁーくぅぅぅ!」 とリビングルームへ入っていく。 「面白いパックをしてるね」 「歌舞伎の『(しばらく)』っていう演目の隈取なんだわ。人を殺そうとするところへ、ちょっと待ってっていうお話なのん」 「そう。あれ、目の周りが赤いかな?」 「隈取なんだわ」 玲而は何も言わず、黙って遥の様子を観察していた。  その静かな時間が、遥の気持ちを落ち着け、静寂に先に根負けして口を開く。 「遥ちゃん、お友だちになれる自信があったのん。日本に帰ってきてから、皆がお友だちになってくれたから。ちっちゃいときは苦手だったお友だち作りも、上手になったんだって勘違いしたんだわ。でもそれは奢りだったのん。遥ちゃんはやっぱり変な子で、おしゃべりで、うるさくて。ダメな子なのん」  玲而は胸を開き肩の力を抜いて、遥の目を見て頷きながら、遥の話を聞いた。 「そうか、遥ちゃんが友だち作りを苦手だと感じていたのは意外だったな。人懐っこくて話題も豊富で、誰の心にも寄り添おうとする、そう思っていたから」  遥はこくんと頷いてから、小さく首を左右に振った。 「遥ちゃんが寄り添おうとすると、ときどき勢いがありすぎて、お友だちが飛んでっちゃうのん。あと、遥ちゃんが発明した遊びは面白くてお友だちが寄ってくるけど、たいていは先生が怒ることだったから、お友だちも怒られるからいなくなっちゃったのん。 スパイごっこ、楽しかったんだけど。本当にテストの解答を書いた紙をスパイしちゃったのは失敗だったわ。ああいうのは、本当にできたとしても、やっちゃいけなかったのん。カンニングできるからってしたらいけないのと同じよ」 「でも、それでわかって、やらなくなったんだろう?」 「スパイをやめて、忍者になったのん。プールの上にスーパーマーケットでもらったダンボールを端から端まで並べて渡ってたら、PTA会長さんまで巻き込む大騒ぎになっちゃって……。 会長さんは毎朝『忍者くんおはよう』って声を掛けてくれたけど、ほかのお友だちのパパやママはあんまり自分の子と遊ばせてくれなくなっちゃった。下手したら死んでたって言われたら、言い返せないのん。 ……遥ちゃん、人と遊ぶのは本当に苦手よー。遊ぶルールが細かく決まってる茶道は安心できるんだけど、茶道に興味ないお友だちと遊ぶのは、とってもとっても難しいわ」 力強い隈取を顔に貼りつけたまま、遥は深い深いため息をついた。

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