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第169話

 玲而は遥のため息まで耳を傾けてから、考え考え口を開いた。 「僕は、遥ちゃんのその発想の豊かさと実行力を素晴らしいと思うけどなぁ。いけないことだ、危険だと知れば、その行為を止められるようだし。大人に否定されたのは辛かったと思うけど、その記憶で遥ちゃんの学童期全てを否定してしまうのはもったいないように思う」 「そうかしらん?」 隈取が貼りついた顔を向けても、玲而は遥の目をまっすぐに見て、励ますようにしっかり頷く。 「生命に関わることは怒られる、それは当然だよ。ね?」 「もちろんなのん」 「危険を注意されることと、アイディアを否定されることは、切り分けられると思わない?」 「切り分ける?」 「端的に言うと『これはこれ、それはそれ』。カレーみたいに混ぜてしまうのではなく、ケーキのように切り分けるんだ」 「おー……いえ?」 「遥ちゃんがケーキ屋さんだったとして、いちごが乗ったホールケーキを作る。いちごが一つだけ傷んでいたら、どうする?」 遥はまだ湿っているミルクティー色の髪を振った。 「商品としては残念だけどダメだわー。傷んだいちごを避けて、遥ちゃんが全部食べるのん」 「ケーキはなるべく売らなきゃ」 「あーん。じゃあ、別のいちごを買ってきて取り替えるのん。あるいは八等分に切り分けてショートケーキとして七切れ売って、一切れは遥ちゃんが食べるのん。きっと美味しいんだわ!」 味を想像し、遥は両手で頬を挟んで笑う。 「そうやって、たくさんあるいい部分のことも考えたら、悪いのは一部分だ。傷んだ一粒のいちごだけを見つめて全部が悪いと思うのは、バランスが悪いと思わないかい?」 前下がりの黒髪をさらりと揺らし、遥はぴょこんと身体を揺らした。 「おーいえー! 遥ちゃんは変な子だけど、お勉強得意で、髪の毛がくるんってしてて、いつも元気で、楽しい遊びを考えるのが好きな、なかなかいい子なんだわー!」 遥は自分の前髪を自分で撫でた。 「そうだね。普段の遥ちゃんは気持ちの切り替えが上手くいってると思うんだけど、さっきはちょっと上手くいかなかった。そういうとき、物事の捉え方の歪みを直す『認知行動療法』というスキルを知っておくと役立つかも知れない」 「おーいえー……?」 「いずれ学校でも教わると思うけど、患者さんやほかのスタッフと関わるとき、この方法は助けになると思うよ。ざっくりだけど、試しに5カラムのワークシートをやってみようか」  玲而は稜而の書斎からプリンター用紙を一枚持ってきて横向きに置くと、縦に四本の線を引き、五つのスペースに分ける。  さらに左から順に、『状況』、『気分(%)』、『自動思考』、『別の考え』、『結果(%)』と項目を書き込んだ。 「字が汚くてごめんね。左から順番に埋めていくんだ。まず今日の遥ちゃんが落ち込んでしまった『状況』を書く。遥ちゃんが自分でわかりやすいように書けばいいからね」 「一郎さんの悪口を止めさせたいと思った。友だちになることで一郎さんの気持ちも、病室のおじいさんのことも解決しようとした。一郎さんにうるさい、騒音と言われ、置いていかれた。……って感じかしらん?」 遥は指の間でシャープペンをくるんと回す。 「では、『気分』を書いてみよう。%は合計が100じゃなくていい。遥ちゃんの感じた気分と、その気分の大きさを書けばいいよ」 「悲しい50%、後悔70%、プンプン25%、辛い62%、またやっちゃった48%、って感じかしらん」 「そうしたら自動思考を書こう。自分が思ってしまったことを書く。遥ちゃんは今日の出来事について、ほかにはどんなことを思った?」 「お節介しちゃった! またやっちゃった! うるさい、小さい頃から変わってない、変な子、馴染めない33%、ダメな子100%」 ワークシートにサラサラと書き込む。 「では『別の考え』を書こう。カレーじゃなくて、ケーキの考え方をするんだ」 「お節介は親切心なのん。人を罵る一郎さんを見ていられなかったんだわ。遥ちゃんは、優し、親切、ユニーク、ユーモアがある、目立つ、元気がある、失敗することがあるのは仕方ない、人間だもの、相性がある。……それと、さっきは絶望して取り返しがつかない気分だったけど、挽回のチャンスはあるはず。明日、ごめんなさいって言うだけでも違うと思うんだわ!」 遥は『気分』の項目に戻って絶望76%と書き込んだ。 「さあ、もう最後の項目だよ。この状況になったとき、咄嗟にこういう気分になって、自動的にこう考えた。だけど別の見方をしてみた。さて、今のご気分は? 『結果』のカラムに書こう」 「明るい78%、後悔は大幅に減って12%、プンプン3%、絶望7%、辛い0%、穏やか18%、好き20%、希望60%! こんな感じかしらーん」 遥は背筋を伸ばした。 「ずいぶん改善したね。これは最初の手ほどきは受けるとしても、最終的には自分で自分を助けることができるから、『セルフヘルプ』っていう」 「おーいえー。今、遥ちゃんの心は助かってますのん」 「今のは簡単な説明だけど、ワークシートはほかにもいろんな種類がある。7カラムや、二十四時間の行動記録と気分の変調を記入する表、睡眠記録表などなど。精神疾患を持つ人が薬物療法と併用すると治療効果が上がることも分かってるし、看護師や介護士など感情労働を求められる人たちの助けにもなる」 「感情労働?」 「そう。手技だけでなく、気を使ったり、思いやったり、理不尽な思いをしたり、感情でも労働する。答え合わせをしちゃうけど、遥ちゃんが役割を強要されてるんじゃないかというのもそれだよ。『白衣の天使』を患者からも、ひょっとしたら自分からも強要されてるかもしれないね。結婚した女性が『妻』を強要されるのと同じように」 「おーいえー。その強要で感情労働しちゃうのん」 「役割を強要されると感じたり、相手の望むように演じるって、家庭内でも、職場でも、結構あることなんだ。僕の専門領域にもかかる話だから、もっと喋りたいけど、カレーができたみたいだね」  玲而が笑い、稜而がダイニングテーブルへカレー皿を運んだ。 「今日は煮込む時間がなかったから、辛さ控えめグリーンカレー。チャツネとココナッツミルクたっぷりで、遥も食べられるよ」 「ありがとうなのん! 胃袋刺激されちゃう香りなのん!」  遥は目を閉じ、顔を左右に動かしながら香りを嗅ぐ。  ぱっちり目を開けるとスプーンを構えた。 「いただきますのん!」 「遥ちゃん、その前に。もうそろそろ暫の隈取はとっていいんじゃないかな?」 「あらーん! しばらく経って、忘れちゃってましたのよー!」 ぺろんとフェイスパックを外し、改めてスプーンを握って、特製グリーンカレーを食べ始めた。

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