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第181話

「♪みどりーのやまをーはしりぬけてーく、まっかなボルボ! ふたりーたびなのー、はるか、きままにハンドルきるのっ♪」 遥は譲り受けた真っ赤なステーションワゴンのハンドルを握り、山間の高速道路の中央車線を走りながら、高らかに歌を歌っていた。  助手席では当直明けの稜而が軽くシートを倒して、深い寝息を立てている。 「稜而はぐーぐー寝てていいのん。遥ちゃんはもう首都高だってへっちゃらだし、車だって一度も傷つけてないのん。ブレーキも早めにかけるし、無理も無茶もしないし、皆様の予想に反してとても丁寧で安全な運転なんだわー! どれもこれも入汲(いりくみ)のおばあちゃんが『遥ちゃんの交通安全をお願いしますっちゃ』って、いろんな神社やお寺で神様仏様にお願いしてくれたからなのんちゃよー」 車後部のハッチバックドアにはスタンプラリーのように交通安全のシールが貼られ、ダッシュボードには車検証やサングラスと一緒に交通安全の御守がどっさり入っていた。  山の斜面から雲が生まれる瞬間を目撃しつつ、インターでウィンカーを鳴らし、料金所を通過して国道をしばらく走り、谷を流れる川を見ながら赤い橋を渡って、入汲温泉駅や温泉旅館の前を通過し、養豚農協の前でちょっと車を停めて、事務所へ入って行った。 「お世話さんですー。東京の稜而と遥ですー。大家のおとうちゃんばいますか?」 「もうもう遠いところをよく来たっちゃな」 胸ポケットに『大家』と刺繍された作業着姿のおとうちゃんが出てきて、遥の背中をばしんと叩いた。 「いでで。サインもらいに来たっちゃよ」 「そこの椅子に座って待ってくれちゃ。ハンコ持って来るちゃよ」 事務のお兄さんに最近名産品になった入汲茶を出してもらい、ぺこりと会釈している間におとうちゃんが戻って来た。  稜而はソファから立ち上がっておとうちゃんを向かえ、遥も隣でぴょんと立った。 「この度は推薦状の手配も、身元保証も、住む場所も、何もかもお世話になり、ありがとうございます」 稜而がきちんとお辞儀をする横で、遥もぴょこんと頭を下げる。 「稜而先生の実力と人柄っちゃよ。慣れない挨拶で遥がロボットみたいになってるちゃけ、楽にしてくれちゃ」 「あーん。古風な妻として大和撫子なお辞儀をしたつもりだったっちゃよー」 頬を膨らませる遥を笑いながら揃ってソファに座り、稜而が『入汲温泉整形外科・リハビリテーション病院』と書かれた封筒から差し出した書類にすらすらの住所と名前を書き、捺印してくれた。 「ありがとうございますっちゃー。こちら気持ちばかりっちゃけども、職場の皆さんでお召し上がりくださいっちゃ。大家のおうちには、同じものを持って行くっちゃけ」 丁寧に風呂敷から取り出して、桐箱入りのカステラを差し出した。 「遥のくせに、気ぃ遣わせて悪かったっちゃなぁ」 「これは稜而からの気持ちですのん」 「そうか。先生からなら、ありがたく頂戴します」 「なんなのーん! 稜而と遥ちゃんの何が違うのんっちゃー?」 「人格の違いっちゃろなぁ!」 「あーん、人格! それはもうもうどうにもならないっちゃー」 その場にいた人全員が笑い、遥は笑顔で手を振り、リベンジでおしとやかな大和撫子風に頭を下げてから、車に戻った。 「病院に書類を出して、それから大家のおうちに行くっちゃ。しーゆーあげいんっちゃよー」 そのとき、おとうちゃんは事務所に引き返して、大きな発泡スチロール箱を二つも持って来た。 「遥、大家のウチまでこれを積んで行ってくれちゃ。おかあちゃんから頼まれた貴腐豚(きふとん)シリーズのいろいろっちゃよ。晩メシ食って帰れっちゃ」 「あらーん! 貴腐ブドウの搾りかすを食べてお育ちの貴腐豚ちゃん! 喜んでそうさせて頂くっちゃよー」 ステーションワゴンの大きなラゲージスペースにどすん、どすんと箱が積まれてから、遥は運転席に座り、稜而はもう一度礼を言って助手席に座った。 「おとうちゃん、どれだけ貴腐豚シリーズを詰め込んだのかしらん。なかなか重たい感じがするのん。♪あかいはしー、わーたったー、はーるーかーちゃーんんんんん! いーじんさんじゃ、なーいーのよ、にっぽんじーん♪」 入汲温泉町は入汲川を挟んで東側に入汲線の線路、西側に国道59号がそれぞれ川に沿うように通っていて、赤い欄干が緑に映える入汲橋が両者を繋いでいる。  リハ病院は同じ入汲温泉町でも町役場や銀行の支店、郵便局が集まる国道沿いの比較的繁華な場所に建っていて、遥は広大な第二駐車場へ車を停めた。  書類を手に病院の建物へ入って行く稜而を見送り、第二駐車場の隅にある石碑に気づいた。車を降りて近寄ると、『入汲温泉病院発祥の地』と書かれている。 「ふむふむ、偉いお坊さんが布教して歩いているときに、暴漢に襲われて怪我をして、ここの温泉で心も身体も元気になったのん。骨折も治るなんてどんな仕組みなのかしらん? 豚骨ラーメンみたいにお湯に入ったら成分が染み出るのはイメージできるけど……」 遥はそこまで独り言を行って、自分の車を振り返った。誰も乗っていないはずなのに、微かに揺れているような気がする。  掛け戻ってドアを開け、車の中を覗き込んで叫んだ。 「やっぱりー! やっぱりっちゃよー! 貴腐豚(きふとん)風ただのドライブ好きな豚ちゃんちゃー!!!」 後部座席の足元で横倒しになり、目を閉じて規則正しい寝息をたてていた。  病院で手続きとちょっとした挨拶を終えて戻ってきた稜而を乗せ、おばあちゃんの家に行く前に再び養豚農協へ立ち寄る。 「ご自分の庭つき軽トラ一戸建てでお過ごしくださいませなのよー」 車好きが高じて、廃車の軽トラを住まいとして与えられている豚は、小屋まで撒かれた餌を頼りに、ヘンゼルとグレーテルのように帰って行った。

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