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第184話

「♪はるは、かふんとぶ、きせつです! みんなはなみずを、たらすんです! なーみだ、はなみず、くしゃみ。はなかーんで、ひりひりといたくなる♪」 遥は動物の鼻の写真がプリントされたボックスティッシュ三箱セットに『御挨拶 渡辺』と書いたのし紙を掛けたものを抱え、あぜ道をるんたった、るんたった、と飛び跳ねて歩いた。  隣では、稜而が遥の歌を笑いながら聞いていて、遥はさらに歌った。 「♪じゃあね、もっと、はなかんで! じゃあね、じゃあね、だーめよ、すすったりしちゃ、あー、ティッシュペーパー、わーたしたちは、エッチのときもきっとつかうの!♪」 「遥の歌ば、昼間っから容赦ないっちゃな」 前を歩いていたおとうちゃんが笑いながら稜而と遥のほうへ振り返った。 「先生、遥。ウチは『(かど)大家(おおや)』。これから行くのは自治会長の家で、『丸の大家』ちゃ。この辺りは大家って苗字が多いっちゃけ、屋号をつけるっちゃよ」 説明を聞き、遥はティッシュペーパーを抱えたまま片手を前に片足でぴょんぴょんと、勧進帳の弁慶の飛び六方を真似た。 「屋号って、歌舞伎の『よっ! 銀杏屋!』みたいなもんちゃろか?」 「そうっちゃな。ただ、なんでその屋号なのかは、苗字の由来と同じでよくわからんちゃよ」 「ウチの地元もやたら渡辺姓が多いから、町会の人には『資而(もとじ)の渡辺です』って名乗る」  遥も稜而の隣で頷いた。 「おーいえーなのん。町会費や赤十字のお金を会計さんのところへ持って行くとき、遥ちゃんも『渡辺資而の家の者です』って、お父さんの名前をフルネームで言うのん。だって、今年度は会計さんもワタナベさんなのん! でもでもご親族の方ではないんだわー」 「それと同じようなもんちゃ」  おとうちゃんは自治会長さんの家へ行くと、がらがらと玄関の引き戸を開けた。 「お世話さーん、角の大家っちゃー」 中へ声を掛けると、人のよさそうなおじいさんが出てきた。 「お世話さんです。リハ病院に国内留学に来た渡辺稜而先生と、“ 弟の”遥っちゃ。ウチの離れに住むっちゃけ、ご挨拶に伺ったっちゃよ」  おばあちゃんは「堂々と妻を名乗ればいいっちゃ」と言ってくれたが、都会でも田舎でも関係なく、まだまだゲイだと言えばその肩書きが一番最初に注目されて、先入観が邪魔をするし、面白半分にデリケートな質問をぶつけられたりしてやりにくいという稜而の気持ちが優先され、遥も「変な子って思われるのは誰にも期待されなくてラクだけど、ゲイって思われるのは期待されるものが多すぎてラクじゃないんだわー」と同意して、家族会議の結果、対外的には“弟”を名乗ることにした。  おとうちゃんに紹介されて、稜而が頭を下げる。 「渡辺と申します。よろしくお願いします」 折り目正しい挨拶をする後ろから遥がぴょこっと顔を出す。 「弟の遥ちゃんですのん! これ、気持ちばかり、お近づきのしるしですっちゃ! 花粉の季節っちゃけ、お使いくださいませませなのんちゃー」 ボックスティッシュ三箱セットを差し出し、そのまま稜而の半歩後ろまでエビのように下がってから、両手を膝にあててぴょこんと頭を下げる。 「おお、おお、夏に旅館の親爺を助けた先生と、角のおばあちゃんば可愛いがってる孫っちゃな。よーく話は聞いてるっちゃよ」  自治会長が穏やかな声で頷いたとき、外で車のエンジン音と大音量のミスチルが聞こえ、ふっと静かになった。  「桃花(ももか)が帰ってきた」  その言葉と同時に大きな丸い瞳が印象的な、桃の花のように可愛らしい小柄な女性が玄関へ入ってくる。会釈だけで通り過ぎようとする桃花を、自治会長が紹介した。 「孫の桃花っちゃ。リハ病院で看護師をしてるっちゃよ。……桃花、こちらの渡辺稜而先生ば、四月からリハ病院に留学に来るそうちゃ」 「渡辺です。よろしくお願いします」 稜而がきちんとお辞儀する姿を見て、桃花はさっと顔を逸らした。 「留学の医者は、自分の症例を積むことと、勉強のことしか考えてないから嫌い。病院のルールを教えてもどうせすぐ元の職場に帰ると思って覚えようとしないし! 腰掛けは迷惑なの!」 稜而は神妙な面持ちで桃花の発言に耳を傾け、しっかり頷いた。 「気持ちが引き締まる言葉をありがとうございます。患者さんのことを第一に考え、学ばせていただきます。一日も早くルールを覚えリハ病院の一員として活躍できるよう努力したいと思います」 桃花はさらに稜而から顔を背け、桃色のバレエパンプスを脱いで、家の中へ上がっていってしまった。  自治会長は桃花が階段を上がって見えなくなるまで見送ってから、ふうっと息を吐いて、稜而を見た。 「先生、堪忍っちゃー。もともと気の強いところへ持ってきて、夜勤明けは気が立って、いつもあんな感じっちゃね」 「いいえ。心構えを教えていただきました」 稜而は爽やかな笑顔で答え、自治会長は笑う。 「もうもう、好青年っちゃなー!」  遥も一緒におほほほほ、と笑った。 「稜而もミスチル好きだから、心配しなくてもすぐに仲良くなれると思いますのん。ご心配無用なんだわー!」

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