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第187話
入学式をつつがなく終えて、如月は整えていた髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、ネクタイを緩めながら研究室へ入る。遥はその後ろを歩きながら、コンビニで買ったサラダチキンをパッケージから直接もぐもぐしていた。
「お前、コンビニを出てからずっと食ってるな?」
「精液作ってるのん。高タンパク食品、亜鉛、葉酸、マルチビタミン、そして水分!」
サラダチキンの汁で濡れた指先を順番にしゃぶってきれいにしてから、サプリメントをざらざらと手の上に広げて数え、ペットボトルの水で飲み干した。
「そんなことをしなけりゃ間に合わないほど絞り出してきたのか」
「遥ちゃんはお尻であーんってなる側だけど、それでも押されると出ることあるのん。昨日はこぼしちゃったんだわ」
机の上に座る遥の膝を左右に広げさせて引き出しを開け、煙草を取り出して火をつける。
「ふうん。別にお前らがどっちでも俺の知ったことじゃないが」
昼の空へ向けて如月は紫煙を吐き出した。
「如月は男とはセックスしないのん?」
さらに割り箸を片手にアスパラガスのピーナッツあえをもぐもぐしながら、遥はミルクティ色の髪を傾ける。
「俺? 想像に任せる……と言おうと思ったが、お前は余計な想像を働かせるから言っておこう。きっかけがあればどちらでも。ただし他人のものに手を出す趣味はなく、いずれにせよバカは嫌いだ」
遥にかからないよう顔を背けて煙を吐き出し、また一口ゆっくりと吸う。
「あらーん。バカはいいと思うのよ。胸に抱いて頬ずりしたくなるのん。バカな子ほど可愛いんだわ」
「お前のような母性は、俺にはない」
苦笑して小さく首を左右に振り、再びゆっくり煙草を吸って、窓の外へ紫煙を吐いた。
四月の空に舞う紫煙を一緒に見送って、遥も自分の膝の間から引き出しを開けて煙草を取り出し、唇の真ん中に挟んで火をつけた。
「喫煙はよくないらしいぞ。特にメンソール」
如月は遥の煙草のパッケージを見てニヤリと笑う。
「ベトナム戦争のとき、シガレットに性欲減退の薬を仕込んでメンソールで味を誤魔化して兵士に支給したって話は都市伝説なのん」
「残念、知っていたか」
「稜而にも同じことを言ってからかわれて、遥ちゃんは調べたんだわ」
「奴と同じレベルなのは腹立たしい」
如月はわざとらしくしかめっ面をして、笑いながら煙を吐いた。
「稜而もきっと同じことを言うのん」
遥は肩をすくめて笑うと煙草をもみ消して、最後の紫煙を四月の空に向かってふうっと吐き出した。
「遠距離恋愛は上手くいきそうか」
「今朝、稜而と離れるときはとても寂しかったけど、壇上で入学生ウェルカムのご挨拶はちゃんとできたから、たぶん大丈夫なのん。大丈夫って信じるしかないんだわー」
「信じるなんて、ずいぶん尊いことを簡単に仰りやがる」
「如月が疑いすぎなのん。人間はもっと簡単に信じていいのん。難しいのは信じることじゃなくて、赦すことなのん」
「知ったようなことを言いやがって」
如月は鼻で笑ったが、灰皿の底へ煙草の火をギリギリとねじりつけた。
遥はその手を見ながら肩をすくめ、ミルクティー色の髪を左右に振った。
「さて、遥ちゃんはサンプル出しますのん」
「もう製造工場は仕事を終えたのか」
「材料を送り込めば、こびとさんがすぐに工場を動かして、在庫をタンクへ押し出してくれるのん」
「こびとさん? お前、本当に医学生か」
灰皿に煙草の火を押しつけたときの憎悪など忘れたかのように笑う如月に、遥は首を傾げて見せるいい加減さで笑いながら、二段目の引き出しを開ける。滅菌済みと書かれた袋で包まれた蓋付きのプラスチックカップを取り出した。
「さすがにロールカーテンは下ろして欲しいし、蛍光灯のスイッチはオフにして欲しいんだわ」
「はいはい、そのくらいは仰せの通りに」
如月は自分のジャケットを遥の膝の上にばさりと放り投げ、カーテンを下ろして部屋の灯りを消した。
ロールカーテンを透かす陽の光と、デスクを照らすライトだけが光る中で、遥は革靴を脱いで床に落とし、ベルトを緩めてトラウザーズも脱いで、さらに桜餅色のボクサーブリーフは隣で椅子に座り電子顕微鏡と試薬の準備をしている如月の頭へ乗せた。
「ここはストリップ小屋か」
頭を傾けて避けるはずが間に合わなくて顔の前に垂れ下がったボクサーブリーフをつまんで机の上に置く。ノンアルコールのウェットティッシュとゴミ袋、男女が絡み合うエロ本も机の上に置いた。
「わーお。えっちっちー! 如月の趣味なのん?」
「卒業したゼミ長。去年から大咲ふたばに行ったはずだ。麻酔科の星涼介って知ってるか」
「おーいえー! 静岡出身なのに関西弁の寝取られ涼介さんなのん。抜釘術でお世話になったんだわ。そういえば如月組だって言ってた気がするのん」
「正確にはあいつは大福門下。ゼミは俺が引き継いだだけ。だから大福に何を言われても物怖じしない変人に育った」
「如月は大福先生の前では直立不動なのん?」
「そんな礼儀と処世術が身についていたら、大福に椅子を譲ってもらわなくても、自力でこの席を手に入れていた。返せない恩ばっかり積み重なっていく」
如月は苦々しい表情を隠さなかった。
「今思い出したんだけど、大福先生は如月のことを自慢の教え子だって仰ってたわ。如月のことをいっぱいいっぱい褒めながら、如月のことを考えて子煩悩なパパみたいにふくふくお笑いになってたのん」
如月は表情を緩めて苦笑したのみならず、微かに目を光らせた。
「如月?」
「お前は次から次へと俺の傷口を抉ってくる。そんなに俺を殺したいのか? 大福は俺のウィークポイントだ。俺を刺そうと思ったときは、俺なんかより大福を狙え」
小さく洟を啜り、目を見開いて涙を誤魔化すと、如月は立ち上がって遥の肩を掴み、壁に押しつけた。
「キスだけ手伝ってやる。さっさとサンプルを出せ」
如月は静かな声でそう言い、遥の唇には如月の唇が重なった。
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