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第3話

「じゃーねー、Mon(モン) choux(シュー)!」  病棟から準備ができたと連絡が来て、(はるか)稜而(りょうじ)に向けて手を振った。 「はいはい。お大事に。あとでご家族がいらしたら、ご挨拶に行く」 「わーい! 『遥さんを俺に下さい』ってやつー? オレ、愛されてるーぅ?」 両手で自分の頬を包み、上体を横に傾けて笑う。 「ただのインフォームド・コンセント(説明と同意)だ。俺に用があるのはお前の骨だけ、外側に用事はない」 「もう。キャベツったら照れちゃってぇ!」 「キャベツ?」 少し長めの前髪の隙間から、片眉を上げて遥を見る。 「うん。『Mon(モン) choux(シュー).』で、私のキャベツ。愛しいダーリンに使う言葉だよ。シュークリームのシューと同じ! 美味しそうで可愛いだろ? ダーリンを呼ぶのにぴったり!」 「俺はキャベツじゃない」 「またまた、照れちゃってぇ!」 左右の人差し指を交互に突き出して見せながら笑っていて、稜而は前髪を吹き上げる。 「もういいから、さっさと病棟へ行け」 「Adieu(アデュー), Mon(モン) キャベツ!」 「キャベツじゃない!」  笑い声を立てるナースたちにベッドを押されて、遥は救急外来を出て行った。 「これからがピークだっていうのに、一晩分の気力と体力を持っていかれたな……」 ダイバースウォッチの盤面を見て、首を振り振り、当直室へ引き上げた。  当直室は四階にある。フロアの大半を占める総合医局とロッカールームを挟んだ反対側にドアが並び、格安ビジネスホテルのように狭いユニットバスとセミダブルベッド、テレビが一台あるだけのシンプルな部屋だ。  男性用の当直室は、誰が持ち込むのかわからないが、たいていは暑がりな女性が様々なポーズで写るグラビア雑誌や、超一流スナイパーの活躍を描いた劇画、そして当直医のバイブル『研修医当直御法度』という赤い本が置かれているのが定石だ。  二年間の初期研修医時代に大学病院で一通り読み尽くした稜而は、本が収められたカラーボックスには見向きもせず、真っ直ぐベッドに倒れ込んだ。  疲れても眠くてもリカバリーするタイミングがなく、次の休みまで耐えるしかないローテーター(初期研修医)の頃と比べれば、今の方がプライベートと切り分けができるし、休みも取れると先輩たちからは聞いている。 「全っ然、実感わかないけどな……。土曜日も包交で一日終わるし」  シーツに吸い込まれるように目を閉じて、呼吸がゆったり深いものに切り替わった直後、胸に細かな震えがあった。 「はい、稜而です。……病棟? そっちで何とかなりませんか。……はあ。わかりました、行きます」 稜而は通話を終えたPHSを握りしめたまま、再びシーツに顔を埋める。 「うがーーーーっっっ!」 シーツに叫び声を吸わせ、無理矢理にベッドを突き放して立ち上がった。  下っ端の稜而にのんびりエレベーターを待つ習慣はない。三段飛ばしで非常階段を駆け上がる。 「今度は何だ?!」 不機嫌をそのまま顔に出して、稜而は病室のドアを開けた。 「だって、こんな可愛いおねーさんに見られちゃいやーん!」 遥の個室は、口をへの字に曲げて腕組みをする女性ナースと、ベッドの上でミルクティ色の巻き髪をぶん回す遥、その間に蓋がひび割れ、角に直径十センチほどの穴が開いているスーツケースが横たわっている構図だ。 「こっちは仕事だ。男の下着くらい何とも思わない」 「稜而も?」 「そう」 「じゃあ、稜而はオレのスーツケースを開けていいことにする! オーディション合格ぅ!」 パチパチと拍手されて、稜而は前髪を吹き上げる。 「お前なぁ、俺は当直中なんだぞ! 病棟のことは病棟ナースと相談しろ」 「だっておねーさん、砂糖菓子みたいに可愛いんだもーん!!!」  若い病棟ナースでも、稜而よりキャリアは長く、医師三年目の立場は弱い。不機嫌な目でちらりと見られて、稜而は静かに申し出た。 「あとは俺がやります」  ナースは当然のように頷くと、さっと踵を返して病室から出て行った。 「スーツケースの中身をロッカーへ移すだけでいいんだろ?」 「でも、いやーんな物は、隠したーい!」 「いやーんな物?」 稜而がスーツケースのベルトを外すと、壊れた蓋はビックリ箱のようにはじけ飛んで、中身が周囲に散らばった。 「うわっ、お前……」 「だからイヤだったんだよぅ! ……わはは、稜而、頭からパンツかぶってるー!」 目の端にちらつく真っ白なサテンリボンを引っ張ると、オーガンジー素材のTバックショーツが滑り落ちてきた。 「お前の下着?」 「うん。勝負下着! そっちの床にあるキャミソールとお揃いなんだ。ちゃんと男性用だよ。前が収まるようにできてるでしょ? さっき買ったんだっ!」 ぴらっと広げてみると、全体的に向こうの景色が透けて見えるが、前の部分に余裕があるのはわかった。 「まー、パンツくらいは笑ってもらえると思うんだけど、もっとヤバいやつがあってさー」 「これよりまだ?」 遥が指を差す黒いビニール袋を取り上げた。 「壊れてないかなぁ?」  ベッドの上で逆さまにすると、ぷるぷるとした円筒形、チューブ入りの透明ゼリー、次第に大きくなるビーズの連なり、コード付きのピンク色のミニウィンナー、乾電池使用の首振りロケット、シリコン製の男性器の模型などが、どさどさと落ちてきた。 「まぁ、当直してれば、いろんな患者さんを引き当てるけどな。……どうやってフランスから持ってきたんだ?」 最後に袋の中から落ちてきたショッキングピンクのフェイクファーの手錠をつまみあげ、稜而はベッドの端に腰掛けた。 「ここへ来る前に、新宿に寄ってきたんだ。空港からバスで直行! びゅーん!」 「お前、まだ十七だろ。よく買えたな?」 「ハーフの顔を見て年齢言い当てるなんて、できなくね? オレ、黙っていれば老け顔だし」 ミルクティ色のゴージャスな巻き髪を片耳の下へ掻き寄せて、ドレンチェリーのように赤い唇を左右に引き、若草色の瞳でぱちんとウィンクして見せる。  さらに遥が口の中でキスの音を立てながら、唇の触れた指先を稜而へ向けると、稜而は目を逸らして立ち上がった。 「さて、と。俺は少しでも睡眠時間を確保したいから、当直室へ帰る」 「待って、待って、待って、キャベツ。このままじゃ社会的に死ぬから、オレ! せっかく車にはねられても生きてるのに、死ぬから! これからの入院生活が生き地獄だから!」 遥は、稜而のズボンのゴムを掴んで引っ張った。 「地味なボクサーパンツだけど、ローライズなのはセクシーでいいねっ」 「うるさいな」 遥の手を引き剥がし、さらに一言何か言ってやろうと息を吸ったとき、ドアがノックされて、開けられた隙間から小柄で高齢な女性の姿が見えた。 「遥ちゃ……」 「あ、ばあば!」 「えっ! ……申し訳ありません。ただいま処置中ですので、少しの間ラウンジでお待ち頂けますか?」 稜而はドアへ駆け寄って、少女マンガの王子様のような柔らかな笑顔を発揮して祖母に話し掛け、会釈しながらそっと、ぴったり、しっかり、ドアを閉めた。 「キャベツ、ナイス機転!」 「俺はキャベツじゃない。とにかく社会的に死ぬようなものは全部その黒い袋に入れろ」 遥は袋の中へおもちゃを戻し、稜而は透ける下着を掻き集めておもちゃの上へ押し込み、口をぎゅうぎゅう縛って、ロッカーの中へ放り込んて鍵を掛け、その鍵を遥の手に握らせた。 「キャベツ、ありがとー! ちょーすてきー! ひゅー!」 「俺はキャベツじゃない! 鍵を振り回すな!」 案の定、遥の手をすっぽ抜けて、鍵は洗面台の下へ飛ぶ。 「やーん、キャベツ、おねがーい! 鍵、とってー!」 「お前、いい加減、ぶっ飛ばすぞ!」 「もうタクシーにぶっ飛ばされてるから、許してー!」 自分の両足を指差して見せていて、稜而は強く前髪を吹き上げた。

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