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第7話

「たのっしーみーな土曜日っ! プールとジェラートっ! ヘーイ、ヘーイ、ヘーイ、イッツァ スイミングデイ! いっぱい犬かきしちゃうぞー!」  大きなリュックサックをベッドの上に広げ、遥は壊れたスーツケースの中からサーフパンツとタオルを入れ、さらに折りたたんである浮輪とスイカ模様のビーチボールを入れた。 「やっぱり勝負下着は持つべきー? セクシャルバイオレットもセクシーでオススメなんだけど。日本人には、やっぱり清楚な白のほうがウケるかなぁ。情熱の赤? 大人っぽく黒? Mon(モン) chouchou(シュシュ) のお好みは、何色かしらーん」  ロッカーを開け、黒いビニール袋の口を開けて中を覗き込んだ瞬間、病室のドアが開いて、遥は両肩を跳ね上げた。 「Ouah(ウア)! 待って、待って! ドント・ディスターブ! 起こさないでクダサーイ!」 「俺はホテルの清掃係じゃない。……まったく。こんなものがスタッフの目に触れたら、セクハラで追い出されるぞ。没収」  稜而は黒いビニール袋をひょいと奪い取った。 「やーんっ! 返してーっ!」 「ダメ」 「それねっ、遥ちゃんが、おフランスの、マジで『ざます』って言っちゃう日本人家庭で、一生懸命ベビーシッターと家庭教師を頑張って稼いだお金で買ったのっ! すぐに遊び始めたり、チンコ掴んでこようとしたり、カンチョーしてこようとするお子様にね、日本人学校の宿題をやらせてね、現地校の勉強も全部見てあげてね、ドラちゃんの通信教育も手伝ってあげてね、ようやく手に入れたお金なのっ! かーえーしーてー!」 装具を着けていて、背伸びができない遥は、黒いビニール袋を高々と掲げる稜而のベルトを掴んで揺すった。稜而は黒色のポロシャツとブラックデニムジーンズというシンプルな私服姿だった。  稜而は遥を横目で見ると、ふっと自分の前髪を吹き上げた。 「退院まで預かる」 「待って、待って! それってナースステーションの大きい棚の下に入れるってことだよね? 何かの拍子にナースがキャッてなって、袋がバーンってなって、床に散らばったら、オレ、マジで強制退院だよね? 夜、病院を抜け出して酒飲んで、有楽街の風俗行って泡姫取り合って喧嘩して、血だらけで救急車で帰ってきた八号室のオジサン二人、『二度とこの病院には来ません』って書類にサインさせられたって本当?」 「よく知ってるな。……いや、個人情報だから言えないけど」 「この病院に出入りできなくなるのはヤダーっ! この病院に就職するーっ! 外来棟の天窓を見ながら働くんだーっ!」  稜而はもう一度前髪を吹き上げて、ビニール袋の口を縛ると、ベッドの上に置かれている遥のリュックサックに押し込んだ。 「退院するまで、病院の外に隠しておけ」 「えー、公園の木の下に穴掘って埋めるとかー?」  稜而は答えず、黙ってロッカーの扉を閉め、遥の背中にリュックサックを背負わせると、遥を連れて歩き始めた。 「外来棟、通って行っていいー?」 稜而はうんうんと頷いて、休診日で誰もいない外来棟へ歩き、待合の椅子に座った。  照明は点いていないのに、廊下の上に並行して取り付けられている天窓から、明るい光が一階まで降り注いでくる。 「もう、本当に最高だよね」  待合の椅子に座り、隣に座った稜而の肩に勝手に頭を乗せながら、天窓を見上げた。 「オレのパパ、天才だと思わない? こんなに気持ちのいい空間を作り出すなんて、最高だよね」  稜而はまたうんうんと頷いた。 「俺もここの空間は好きだ。雨の日でも明るくて気持ちがいい。ふさぎ込みそうになる気持ちが救われる」 「そんなに辛いことがあったの?」 「子供の頃は、親の離婚とか。マザコンなつもりはなかったけど、母親が出て行くっていうのはやっぱりショックだった」 「それはそうだよ。かけがえのないお母さんだもん。オレだって、パパの設計した建物は探して見て歩いちゃう。この病院はパパが設計しただけじゃなくて、最期に一緒に過ごした場所だから、一人で日本に帰って来たら、絶対見ようって思ってた。ママンが一緒にいるときは、やっぱり言いにくいからさー」 「まさか救急車で来る羽目になるとはな」 遥が寄りかかっている肩が小刻みに揺れた。 「ホントだよ。走馬灯って本当に見るんだなーって思ったよ」 遥も一緒になって笑った。 「骨折は痛いだろうが、それだけで済んだのは不幸中の幸いだった。あの受傷機転なら、死んでもおかしくなかった」 「遥ちゃんと運命の出会いをすることもなくなっちゃってたかもねー!」 「そう思うなら、二度と青信号を過信するな」  稜而はそう言うと立ち上がって、夜間休日通用口に向かって歩き始めた。 「キャベツ、待ってー!」 「俺はキャベツじゃない」 振り向くことなく歩いて行く黒いポロシャツの背中を、遥は片松葉で追いかけた。  通用口を出ると、熱を持った強い日差しが二人を照りつける。遥はリュックサックのサイドポケットからサングラスを取り出し、自分の顔に掛けた。  虹彩の色が薄い遥には目を開けていられないほど眩しい日差しも、黒い瞳を持つ稜而は軽く顔を顰めただけで、難なく夏の街を歩けてしまう。  病院の前の通りを左に曲がり、救急出入口の角に出た。街路樹のプラタナスが大きな緑の葉を広げるその道は坂道で、右へ下りて行くと大咲駅があるが、稜而は左へ上っていく。 「ねぇ、プールって、どこにあるのー?」  繁華な場所に背を向けた稜而に声を掛ける。 「ジョンの家の隣」 「ジョン?」  ゆっくり坂道を上っていくと、病院の敷地が終わり、大咲山公園の門があったが、稜而はその公園も通り過ぎて、坂を上る。  公園を通り過ぎると、人の気配すらわかりにくいほど静かな住宅街になり、ただ、犬の吠える声だけが響いてきた。

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