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第8話
遠くまでよく響く犬の鳴き声に、稜而 が小さく笑った。
「ジョンの声だ。俺に気づいた」
「ジョンって、犬の名前なのかー。仲良しなの?」
遥 の問いに、稜而は笑顔でうんうんと頷いた。
その仲良しなジョンが住む家は白亜の豪邸で、高い塀があって声はすれども姿は見えず、ただ塀の内側で走り回っているらしい、近くなったり遠くなったりする鳴き声を聞きながら、その家の角を左に曲がって歩く。
「立派なお屋敷ばっかりだね。お杓文字持って晩ご飯を突撃するの、大変そう」
見渡す限り、土地をたっぷり使い、意匠を凝らした豪奢な家が並んでいて、遥は道の先まで首を伸ばして観賞する。
「昔は大咲村なんていうくらいの田舎で、土地はいくらでもあったから、一区画を大きくできたって聞いてるけど」
ジョンが住んでいる大きな白亜の豪邸が終わると、今度はレンガ造りの高い塀に沿って進む。塀の中に横長のシャッターが二つあり、中は伺えないがカーポートらしかった。その前を通り過ぎると、黒くて細い鉄の棒で造形された大きな門扉が埋め込まれていて、稜而はその中央の合わせ目に鍵を差し込み、片側を押し開けた。
「どうぞ」
「どうも……?」
門扉の隣の表札を見ると、金属製のプレートに『WATANABE』と刻印されていた。
「稜而の家?」
「そう」
「プールに行くんじゃないの?」
「本気で泳ぐわけじゃない、水遊び程度でいいって話だったから、わざわざ混雑するスポーツジムのプールへ行くより、ウチのプールでのんびりするほうがいいかと思ったんだけど、嫌だった?」
「自宅にプールがあるって、どんだけの豪邸……。歌う歌も思いつかねぇよ」
コデマリが植えられたアプローチを歩き、目の前には外壁と同じレンガ造りの、ジョージアン様式の四角い家が建っていた。急こう配の屋根を載せた二階建ての重厚な直方体に、シンメトリーに白い枠の上げ下げ窓が並んで、白い三角屋根の玄関ポーチには、ステンドグラスを嵌め込んだ白い両開きのドアがあった。
鍵を開け、さらに玄関の内側にあるセキュリティシステムを解除しながら「どうぞ」と促された遥は、大理石を敷き詰めた玄関へ足を踏み入れてから、若草色の目を大きく開けて稜而を見た。
「オレ、こんなTシャツとハーフパンツでよかったの? スーツ着て、『稜而さんの妻です♡』って挨拶しなきゃいけなかったんじゃない?」
「父親と俺の二人暮らしだし、父親は今日は講演会に呼ばれて出掛けてるから、気にしなくていい」
遥の声は弾んでいるのに、稜而の声は硬く、遥はドレンチェリーのように赤い唇を尖らせた。
「あっそ。外堀埋める作業は、また今度かー。稜而くんのためなら、エンヤコラぁ、遥ちゃんのためなら、エンヤコラぁ」
玄関へ入って、大理石を敷き詰めた三和土に立ち、玄関ホールを見回した。
三和土の上は吹き抜けになっていて、クリスタルのかけらがきらめく大きなシャンデリアが下がっている。
「うっわぁ! ねぇねぇ、ひょっとしてオペラ座の怪人、出てくるーっ?」
「この家には、音楽の心得がある人はいない」
「電球が切れたら、どうやって交換するのー?」
「昇降パネルのボタンを押して、シャンデリアを下げる」
「そういう仕組みなんだー」
玄関ホールは広々としていて、正面にマホガニー材のソファセットが置かれていた。椅子の張地はサテンで、ちょっと手を伸ばして触ってみたくなるような上品な光沢を放っている。
「あのソファ、座ってみてもいい?」
「どうぞ」
素直に奥へ進み、大理石を敷き詰めた三和土と、ヘリンボーン模様の木の床に段差があることに気付いた。空港に到着してから、まだ一度も個人宅を訪れていなかった遥は、しみじみと段差を見た。
「ここ、日本だー! いいよねぇ、靴を脱ぐ生活っ!」
「脱がせてやりたいのは山々だが、まだ装具なしでの歩行は許可できないな」
稜而は専用のカバーで遥の装具の靴部分を覆った。
「ちぇ。パンツどころか、靴も脱がせてくれないなんて」
「せっかく仮骨 ができてるのに、転んだらふりだしに戻るよりタチが悪いぞ」
「やーん、オレ、今朝もタチはよかったよー! でも一つになるときは稜而がタチでいいからねー! あーん、でもでも稜而が逆がよかったら、遥ちゃんオラオラ頑張っちゃうー」
「その元気を維持したかったら、絶対に転ぶな」
厳命されて、遥は少しだけソファに座って満足し、稜而に案内されて家の中へ入って行った。
「ねぇねぇ、稜而の秘密のお部屋、どこー? エッチな本はベッドの下かしらーん? ……探し物はなんですか、稜而くんの宝物! パソコンフォルダ、ブックマーク、探したらきっと出てくるはずなの、うふっふー、うふっふー……」
「俺の部屋は二階。でも階段の上り下りが大変だろうから、お前はこの部屋を使え」
真鍮のドアノブがついた白いドアを開けると、そこはセミダブルベッドが二つ置かれたツインルームだった。
「誰の部屋?」
「来客用。着替えたら、向こうから直接庭に出てこい」
掃き出し窓の向こうにあるウッドデッキを指すと、稜而は部屋から出て行ってしまった。
遥は稜而の癖を真似て、ふうっと前髪を吹き上げる。
「豪邸って夢があると思ってたけど、獲物を追い詰めるの大変だなー。庶民だったら男子更衣室で一緒にフルチンで、カーテン一枚のシャワールームで、声を我慢して駅弁か立ちバックなのにぃ。『声出すなよ、遥』『あぁん、稜而、激しいっ! も、イッちゃう……っ』みたいなさー!」
遥はベッドスプレッドで覆われたセミダブルベッドの端に座って、装具を外し、ハーフパンツと気球のようにカラフルなボクサーブリーフを脱いで、リュックサックから取り出したマリンボーダー柄のサーフパンツを穿き、真っ白な肌の上半身にパーカータイプのラッシュガードを着た。
「もっと露出度高くできたら、稜而をウッとさせてあげられるかも知んないのに、日焼け対策しないと赤くなっちゃうの、ざんねーん」
ミルクティ色のゴージャスな巻き髪を頭の高い位置で結って、装具を着けて、松葉杖を片手に、浮輪とスイカ柄のビーチボールを持って、ウッドデッキへ出た。
緑の芝生が敷き詰められた庭を見回していると、稜而が気づいて駆け寄ってきてくれた。
「いい身体してるーん! いまの稜而は、ぴかぴかにひかってーん!」
シンプルな黒のサーフパンツを穿いた稜而は上半身裸で、引き締まった身体と艶のある肌を惜しげもなく晒していた。
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