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第9話

 稜而(りょうじ)に見守られながらウッドデッキの階段を降り、夏の光を浴びて力強い緑の芝生の上を歩く。 「こんな気持ちのいい芝生、裸足で歩きたいなー。うぉーきんざぱーく、稜而はー、遥にも、今日はやさしいー。きゃんゆせれぶれーと、きゃんゆー許可みーとぅでい、装具を外すぅー、許可もくれるよねー」 「あと少しの我慢。俺は慎重派だから、簡単に次のステップへの許可は出さない」 今までに何度も言われてきた台詞をもう一度繰り返された。 「ちぇー。じゃあ、足が治ったら、またこの芝生を踏みに来てもいい?」 「いいよ。いつでも来れば」 「まっじでーっ?!」 「そんなに意外な返事だったか?」 稜而は苦笑いする。 「うん。だって、稜而ってば表情が硬いし。めんどくさいと思ってるかなって」 「え? ああ、それは……」  人差し指で頬を掻いてから、稜而は改めて口を開いた。 「休日に自分の患者を病院の外へ連れ出して、自宅のプールに入れようと思っているんだから、緊張してる」 稜而は自分の言葉にうんうんと頷いた。 「そっかー、そういうこと! らん、らんらら、らんらんらん! らん、らんらららーん! マリンボーダーの海パンをまといし遥ちゃん、緑の芝生に降り立っちゃうよーん!」 「だから、すぐにそうやってぴょこぴょこするなよ! 杖を使ってまっすぐ歩け! 転ばないでくれ!」  稜而は悲鳴のような声を上げ、松葉杖を振り上げて歩く(はるか)を追いかけた。 「これ、プールっていうか、リゾートじゃん……」 「大袈裟な」  生垣で囲われた庭の一角は、白い石のタイルが敷き詰められ、青く光る水で満たされたプールがあって、プールサイドには真っ白なパラソルと、真っ白なデッキチェア。プールの長辺と同じ間口の、大きなバーベキューハウスがあり、ロートアイアンのダイニングセットと、バーカウンター、そしてレンガを積み上げて作ったオーブンやバーベキューグリルやかまどがあった。 「すごいね、このグリル。ピザも焼けるし、肉を焼きながら飯盒(はんごう)やダッチオーブンも同時に使えるじゃん」 「中学生の頃、父親と二人で作ったんだ。母親とこんなことをやったら、祖母は怒り狂ってただろうに、父親が一緒にやるときは麦茶なんか持ってきてくれてニコニコしてるんだから。母親も出て行くはずだと思ったよ」  稜而は革製のサンダルを履いた爪先で小さくレンガを突き、苦笑する。 「トラディショナルな考えを持つお姑さんだったんだね」 「まぁ、そうとも言えるかな。母親が出て行ってから、この家はとても平和になったから、互いに無理を重ねるよりは、別れて正解だったんじゃないか」 「夫婦のことや、周りの大人たちのことだけを考えればね。そして家庭の中で一番弱い立場である稜而くんだけが、そのしわ寄せを黙って受け止めて、一人で天窓を見上げたんだね」 「遥のパパの天窓には、慰められたよ」 「パパ、てんさーい! 超素敵ーっ!」  タオルを振り回してはしゃぐ遥に、稜而はうんうんと頷いた。  庭のプールは小学校のプールの半分くらいの大きさで、水深は小学校のプールと同じくらいだったから、スポーツ全般を苦手とする遥にちょうどよかった。  プールの端から緩やかな階段を下りて水の中へ入ると、夏の日差しで灼けた身体が冷やされて心地よい。 「気持ちいーい! レッツ背泳ぎーっ!」  遥ははしゃいで水面に仰向けになるが、両手で水を掻く動作をしたまま、その場にぶくぶくと沈んで行ってしまった。 「は、遥っ!?」  稜而がプールへ飛び込み、細い腕を掴んで引き上げると、遥は眉尻を下げてとほほと笑う。 「全っ然、浮かないんだよ、オレの身体。毎年、今年こそは大丈夫じゃないかって思うんだけど、今年もダメっぽいなー」 「脂肪が少ないんだろうなぁ」 「男性ホルモンが少ないって言われたことがあってさ。だったら女性ホルモン多めで脂肪がついてもいいんじゃないかって思うんだけど、ふんわりもむっちりもしないんだよねー。ゲイにモテる要素がなさすぎ!」  顔の水を拭い、ミルクティ色の巻き髪を絞りながら、ドレンチェリーのように赤い唇を尖らせた。 「何人のゲイにモテたって、本命の一人にモテなけりゃ意味はない」 「わー、名言! オレ、稜而にモテるかなー?」  稜而の背中に飛びつくと、稜而は何も言わず、遥を背負ったまま、すうっと泳ぎ始めた。 「稜而、すごい! 竜宮城へ行けそう!」  水を掻いて進む心地よさを、稜而の背中で疑似体験して、遥は嬉しさのあまり、稜而の頬へキスをした。  すると稜而は泳ぐのを止めて、プールの中へ立ち上がってしまい、遥は背中から滑り落ちた。溺れないように腕を掴んで引き上げてくれたが、稜而の表情は硬い。 「ごめん。日本では、簡単に人の頬にキスしないんだった……」 「青少年健全育成条例」 「は?」 「十八歳未満と知りながらの淫行は、俺が罰せられる。親の病院で跡継ぎと目されながら働いているのに、そういうスキャンダルは困る」 「あ、はい……。ごめんなさい」 「日本はゲイに対する偏見もまだ根強いし、誰かの好奇の目にさらされるのも、変に分かったような顔で同情されるのもごめんだ」 「はい。それはオレも同意見っす」 「条例に関しては、『将来を見据えて、真剣に愛し合っている』なら、許される可能性は高い」  遥は顔を上げ、稜而に抱き着いた。 「了解っ! 『遥ちゃん、大きくなったら稜而のお嫁さんになるーっ! 愛してるーっ!』 これでいいんだよね?」 「もし誰かにバレた場合、本当にそう言えるか? 自分だけ逃げて、俺のことを見捨てるなよ?」 稜而は片頬を上げて遥を見た。 「しないよー、そんなこと!」  遥は稜而の顔を両手で挟み、自分の顔へ引き寄せて、元気よく唇を重ねた。

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