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第11話
遥はプールの水面を打楽器のように両手で叩き、小さな水飛沫を立てながら、稜而を見上げる。
「ね、キスしよ? 一、セックスパートナーは一人だけっ! 二、一人で勝手に出掛けないっ!、三、バレたときは『真剣に愛し合っている』って証言するっ! 三つ約束するから、キス三回!」
遥が約束の数と、キスの回数、左右それぞれの指を三本ずつ立てて見せると、稜而は前髪を吹き上げてから、真面目な顔で遥を見た。
「セックスパートナーは一人だけ。いいな?」
「うん、約束する!」
稜而の顔が下りてきて、遥は習った通りに稜而の唇を見た。角度を変えて口づけていたら、下唇を唇で挟まれ、稜而の舌が遥の唇を丹念に舐めた。
「ん、んっ! ん!」
感覚の鋭い場所を舌先で刺激されて、くすぐったい。逃げたいのに、稜而に抱き締められ、逃げられない。追い詰められるうちに、くすぐったさは甘さを伴って、遥は逃げるどころか、自ら稜而を抱き締める。
「はあ……っ、今の、すっごい気持ちいい」
口を離した遥の目元は赤く、稜而を見上げる瞳は潤んでいた。
「二回目は上唇を舐めてやるよ。一人で勝手に出掛けないこと」
「うん。約束するから、キスして……」
上唇を食まれ、舌で舐め回されて、遥も口の中へ入って来る稜而の下唇を同じように舐めてみた。ぐっと強く抱き締められて、遥は水中で稜而の腰へ片足を絡めた。
稜而は何も言わずにキスを続け、遥の腰をしっかり抱き寄せる。
「んっ?!」
遥の高ぶりに、稜而の硬さが触れていた。
「あっ、稜而……」
遥は口を離して喘いだ。稜而は抱き締める手を離さず、喘ぐ遥の耳に約束を注ぎ込む。
「バレたときには『真剣に愛し合っている』と証言すること」
「ん……。証言する……」
三回目のキスに突入して、互いの舌を絡め合った。ぬるぬる、ざらざらと互いの舌の感触を味わい、遥が稜而の舌をぎこちなく前歯で掴まえ舐め回す。
腰に回されていた稜而の手が、遥のラッシュガードの内側へ入って来た。手のひらで直接背中を撫でまわされ、その手がわき腹から胸へ移動して……
バッシャーン!
「ほえ?」
派手な水しぶきに驚いて、その方向を見ると、黒と茶と白のトライカラーのコリー犬が、ざぶざぶと犬かきをして、二人に向かって泳いできた。絹のような被毛が水の中でゆらゆら揺れる。
「ジョン!」
稜而の言葉に、白亜の豪邸の内側で吠えていた犬の声を思い出す。
ジョンはちゃくちゃくと足を動かし、抱き合う二人の間へ黒い鼻を押し込み割り込んでくると、前足を稜而に向ける。稜而も慣れた様子でジョンを抱き上げ、ジョンは稜而の肩に抱き着いて、稜而の頬を大きな舌でベロンと舐めた。
「お隣の犬なんじゃないの?」
「何度穴を埋めても、塀の下をくぐって遊びに来るんだ」
なあ? と耳の後ろを撫でてやっている。
「くしゅんっ」
可愛いくしゃみをしたのは遥ではなくジョンで、稜而は相好を崩してジョンをプールサイドへ押し上げてやり、自分もプールから上がる。
「ジョン、タオルを持ってくるから、身体を拭くといいよ」
稜而が軽やかに駆け出していくと、ジョンはプールサイドから遥をしばし見下ろし、四本の足を踏ん張って身体を振るった。
「うっわ! 水っ! 毛っ! 飛んできてるし!」
「フンっ」
ジョンは黒い鼻を高く上げて目を閉じた。
「ちょ、何だよ。喧嘩売ってんのか?! オレ、そーゆーの負けないからねっ」
しかしジョンはツーンと黒い鼻を上に向けたまま、お尻を下ろして後ろ脚で自分の耳の後ろを掻く。ういーっと口角が後ろに引っ張られて、真っ白に磨かれた歯が見えた。
「相手にもならねぇってか!」
「フンっ」
「むきーっ」
遥も糸切り歯を見せて威嚇していたとき、稜而が大きなバスタオルを数枚持って戻ってきた。
「ジョン、お待たせ」
「はっうーん」
「何、その鳴き声」
ジョンは遥の言葉に耳を貸さず、稜而が広げたタオルの中へ飛び込んで、全身を擦りつける。
「うふーん、はわーん」
タオルで全身を擦ってもらい、お腹を上に向けて全身をくねらせている。
「ジョンは甘えん坊だな」
「はふーん」
ジョンは稜而に全身を擦り付けながら、チラチラと遥を見ては、フフンと鼻を鳴らして目を閉じる。
「何か、喧嘩売られてる気がするんだけど」
「そう? ジョンは女の子だから、男性の遥のことを意識しているのかもな」
「ジョンなんて名前なのに、女の子?」
「初代ジョンが立派な番犬だったから、名前を継いでるんだ。でもこの三代目は甘ったれで、誰にでも懐くから、泥棒が来ても歓迎してしまうかもというのが、大方の見方」
「うっわー、残念な犬!」
「ガルルルル」
「こらこら、喧嘩しない」
遥とジョンは、それぞれフンっと鼻を鳴らして視線を外した。
「お行儀は二の次、ちゃんと挙上しておけ」
バーベキューハウスでロートアイアンのダイニングチェアを並べられて、遥は椅子に座り、両足を乗せた。
稜而はデニム地のロングエプロンを着け、両手に軍手を嵌めて、慣れた手つきで炭火を熾すと、冷蔵庫から取り出した下拵え済みの食材を焼き始めた。
「稜而、前から見ると裸エプロンっぽいー! エロいー! 最高ー!」
「ほかに考えることはないのか」
「そんなの、十七歳男子に対して愚問じゃね? 自分だって十七歳のときには、エロしか考えてなかったクセに!」
「まぁ、否定はしないな」
トングでフランクフルトを摘まみ上げ、様々な角度から眺めてから、また鉄板へ戻した。
「今も、頭の中はエロばっかり?」
「仕事があるから、ばっかりとは言わないけど、エロは男のアイデンティティだからな」
「すげー、名言だね。エロあってこその男?」
稜而は食材を焼きつつ、笑いながらうんうんと頷いた。
椅子に座る遥と、グリルの前に立つ稜而の間には、しっかりとジョンが伏せていて、二人が会話するたびにレーダーのように耳を動かしている。
ぱちぱちと炭が爆ぜる音がして、遥は小さく呟いた。
「こういうとき、ギターがあったらみんなで歌えるのにね」
遥が交通事故に遭った日、背負っていたクラシックギターは、遥の頭と背中を守ってケースの中で大破していた。
「相手の保険でカバーされるんじゃないのか」
「一応ね。同じ楽器、同じ音色は戻ってこない代わりに、グレードアップしていいって言われてるけど、楽器店に行けないことには、どうにもならないよ」
「クラシックギターとフォークギターは、だいぶ違うものなのか?」
「うんにゃ。基本的な構造は同じ。オレはどっちも弾くよーん」
稜而は赤く燃える炭を見つめ、火ばさみで組み直しながらしばらく考えるような顔をすると、焼けたフランクフルトを遥の皿に載せたきり、どこかへ行ってしまった。
「稜而はトイレかなー? ついて行って襲っちゃえばよかったーん。……あ、ジョン。もーえるよ、もえるーよ。しっぽが燃えるー!」
「キャウっ?!」
遥の歌を聴いたジョンは立ち上がって、ぐるぐると自分のしっぽを追いかけた。
「うっそーん」
「グルルルルルル」
鼻に皺を寄せ、歯をむき出しにして怒るジョンを見て、遥が手を叩いて笑っていたところへ、稜而が黒いハードケースを持って戻ってきた。
「まったくメンテナンスしていない。今、納戸から持ってきただけなんだけど。使えるようなら、どうぞ」
稜而はテーブルの上にギターケースを置くと、すぐに数歩後ずさって、離れた場所から少しぎこちなく手でギターを示した。
蓋を開けてみると、国内メーカーのロゴが入った、フルサイズボディのフォークギターが収められていた。
「触っていいの?」
稜而はうんうんと頷いた。
「Harumiさん?」
ギターケースの裏に書かれた名前を読み取ると、稜而は小さくうんうんと頷いた。
「……母親」
「そっか。ハルミさん、お借りしまーす!」
遥は明るい声でケースからギターを取り出す。
「フォークギターはやっぱりデカいなー。状態いいねー。弦はちょっと錆びてるけど……、ピックも音叉も、歌集まで、全部入ってる!」
音叉を膝にぶつけて鳴らし、緩んでいた六本のスチール弦をネジで締めて調弦していく。弦を張るほど緩んでいた音は引き締まり、ボディに美しく響いて、周りの空気を震わせる。
「クリアに鳴るねー。やっぱ、スチール弦は音がキラキラしていていいね。うん、こんな感じかなっ」
ピックで六本の弦を撫で下ろすように弾くと、辺り一面に大きな音が気持ちよく響き渡った。
「わー、ダイナミックな音! カッコイイなぁ!」
一緒にケースに入っていた歌集を開き、タブ譜を見ながらコードを押さえて弦を弾くと、足元から大きな声が聞こえた。
「うわぉーん! うぉーうぉー、おおーん!」
ジョンが鼻っ面を上に向け、細めた口で遠吠えをしていて、稜而と遥は弾けるように笑った。
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