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第12話

 (はるか)は一曲弾き終えると、改めてギターの弦をチューニングし直し、思いつくまま、曲の華やかなところだけを適当に弾いて遊んだ。  稜而(りょうじ)は新鮮な水を深皿に入れてジョンの顔の前に置き、インスタントコーヒーを二つのカップに淹れると遥の隣に座って、静かに残り火が燃えるのを見ていた。 「何か好きな曲があったら弾くよ」 遥が弦を押さえる自分の左手を見ながら、声だけを稜而に向けると、稜而はギターケースの中に入っていた歌集を取り出した。歌集には癖がついていて、稜而が指先で触れるだけで、簡単にそのページが開かれた。 「ダニーボーイ。……知ってる?」 「うん。エリック・クラプトンが演奏してたから知ってる。あんな風に弾けたらカッコイイなって思うけどねー」 遥は挙上していた足を下ろし、ケースのポケットに入っていた足台を組み立てて左足を乗せ、正しいフォームでギターを構えた。  右の親指にサムピックを嵌め、左手で弦を押さえて、アルペジオを奏でる。  前奏を弾き終えて笑顔と頷きで誘うと、稜而は素直に歌い始める。 「Oh Danny Boy the pipes, the pipes are calling,  From glen to glen and down the mountain side  The summer's gone and all the roses falling  T'is you, ti's you must go and I must bide」  日本語訛りの強い英語で、抑揚は少なく、独り言のように静かに歌う。しかし、その声はスモーキーで、聞く人の心に、まるで紙に落としたインクのように浸透した。  遥は稜而の歌声に合わせ、途中でサムピックを外し、フィンガーピッキングで柔らかく、くぐもった、温かみのある音に切り換える。  ジョンも自分が歌うのは遠慮して、大きく欠伸を一回すると、前足の上に顎を乗せて目を閉じた。  庭木を揺らして吹き抜ける風が、稜而の前髪を揺らし、ジョンの絹のような被毛を吹き上げ、遥の頬を撫でて行く。  稜而は父親と作ったバーベキューグリルの中でゆっくり灰になっていく炭を見ながら、遥のまろやかなギターに合わせて歌を歌い続けた。 「And I will sleep in peace until you come to me……」  風に乗って歌が消えると、遥は何も言わずに大きく両腕を広げ、笑顔で稜而を抱き締めた。  稜而は少し戸惑った様子だったが、倒れ込んで来る遥をそっと抱き止めた。 「わふっ!」  ジョンが立ち上がって、二人の間にぐいぐいと鼻を押し込んで掻き分けたが、遥は身体を離すときに稜而の頬へ音を立てたキスするのを忘れなかった。 「ぶらっぼー! 素っ敵ーっ。医者の仕事が休みのときにジャズバーで歌ったらいいよ! 超スモーキーヴォイス!」  遥の褒め言葉に稜而は苦笑し、前髪を吹き上げた。 「人前で歌うのは苦手だ」 「もったいなーい。遥ちゃんでよかったら、僭越ながら伴奏したげるよ? ジャズバーに音源持って行こーぜ!」 「わんっ、わんっ!」  遥とジョンの提案に、稜而は小さく首を振ったが、その振る首を止めて遥を見た。 「退院したら、一緒にジャズバーに行ってくれないか」 「いいよってば! オーディション受けよ!」 ギターをクロスで拭きながら、遥は太陽の日差しのような笑顔を向ける。稜而はその笑顔に、王子様のような笑顔を返したが、首を横に振った。 「歌う側ではなく、聴く側として。……少し郷愁に駆られたかも知れない」  稜而は人差し指で小さく自分の頬を掻いた。  遥は拭き上げたギターをケースに収めようとして、古いチラシを見つけた。 『Harumi WATANABE・JAZZ LIVE』  マイクに向かって歌う女性の横顔は、先程、火を見つめながら歌っていた稜而の横顔に重なるような気がした。 「……いいよ、一緒に行こう。オレもジャズに興味あるし、一度ジャズバーで間近に生演奏を聴いてみたいって思ってたんだ」 ギターをケースに収めながら明るい声で請け合うと、稜而は小さな声で「ありがとう」と言った。 「ジョン? ジョン、どこにいるの! ジョン、カムヒア!」  白亜の豪邸から女性の声が聞こえた。 「むふぅっ」 ジョンは大きく鼻から息を吐いて、背中を丸め、反らし、身体を振るう。 「ジョン! カムヒア!」  ジョンの耳がコマンドに反応して根元から動く。 「あーあ。呼ばれたら絶対に行かなきゃいけないの、犬って大変だねぇ。バイバーイ!」 「ふんっ!」 ジョンは何度も振り返り、振り返り、遥を睨みつけながら、のそのそと帰って行った。 「ジョン、まーた渡辺さんのところへ行ってたの?」 「わふっ」 「稜而くーん、いつもごめんねー!」 「いいえー!」  稜而は腹の底から晴れやかな声を出して、塀の向こうのお隣さんへ返事をした。  遥は稜而の笑顔に若草色の目を細め、結い上げていた髪を解くと、頭を左右に振った。 「稜而ってさぁ、そうやって笑ってると……、んー。童貞みたい!」 「はあ? どういう意味だ?」 「おとぎ話の王子様って、オレ、絶対に童貞だと思うんだよね。大抵ズボンが白くて、股間にぴったりしてるのに、大好きなお姫様とぶちゅーっとキスしても形が変化してるように見えないじゃん。どんだけ性欲ねぇのかって話ですよ」 「『じゃあ、俺が本当に童貞かどうか、ベッドの中で一緒に確かめてみるか?』とでも言うと思ったか?」 「えー! 言おうよ! そこは全力で確かめに行こうっ! 遥ちゃん、しっかりチェックしてあげる!」 「バーカ。セックスは退院するまで我慢! お前は一階のゲストルームで着替えてこい。遥がご所望のジェラートを食いに行くぞ」 「やーん! 稜而も食べたいけど、ジェラートも食べたい! 遥ちゃん欲張りなのー! 一緒にシャワー浴びよー!」 「ダメ。さっさと着替えてこないと、店が閉まるぞ」  稜而にゲストルームの前まで追い立てられた。 「バスルームにあるものは自由に使っていいからな」 「遥ちゃん、あんよが痛いから、稜而が身体を洗ってくれてもいいのよー?」 「寮生活に支障をきたすようだと、退院のめどが立たないな」 「鬼主治医っ!」  遥が踵を返して部屋へ入ろうとしたとき、不意に背後から抱きすくめられた。 「王子様は、セックスはしなくてもキスはする」 「うん……」  顎に掛かった指で振り向かされて、遥は稜而の唇を受け止めた。

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