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第21話
炭火のように真っ赤な夕陽が差し込む茶室で、遥は稜而の隣に座っていた。
「お先に」
稜而に挨拶されて、遥は目の前のミコ叔母さんが教えてくれるまま、ぎこちなく畳に手をついて頭を下げる。
「ど、どうぞ……?」
懐紙の上に、うさぎをかたどった小さな饅頭と、月をかたどった和三盆を取り分ける手を見る。洗練されているとは言い難いが、戸惑う様子もない無難な所作だった。
遥も見様見真似で、畳に置いた懐紙の上へ菓子を取り分け、左手の上に懐紙を乗せて、黒文字でうさぎの饅頭をそっと切り分け、口の中へ運ぶ。
静寂な茶室では、稜而が柔らかな物を奥歯で噛み、舌で唾液と混ぜ合わせる湿った音や、飲み込む音さえ聞こえてくる。
遥も同じように菓子を食べる。自分が物を飲み込む音は喉からこめかみまで響いて聞こえた。
菓子を食む間に、風炉 の上の茶釜の中で、湯が沸き立つ音が響き始めた。始めはくぐもったような低い音だったが、次第にあぶくが大きく絶え間なく上がって来るようになると、茶釜の金属を弾くような高い音が混ざる。
ミコ叔母さんが水指 から柄杓で水を掬い、沸騰している茶釜の中へ水を足す。
煮立っていた湯は一気に治められて、またしゅんしゅんと湯気を吐き出す。
柄杓が茶釜の中へ沈み、湯を掬い上げて、茶碗の中へ注がれる。茶碗がミコ叔母さんの両手の中で独楽のように傾けられて、まんべんなく湯で温められ、続けて茶筅の先がつけられて、柔らかくなった穂先がミコ叔母さんの目で改められる。仕上げに湯の中で数回茶筅を振って、ぐるりと円を描いてから引き上げられ、茶碗の中の湯は建水 へ空けられた。
黒い棗 の蓋が開けられ、茶杓で掬った抹茶が茶碗の底へ置かれる。茶碗の中の抹茶が茶杓の先で均されて、また沸き立ち始めた茶釜から汲んだ湯が注がれて、茶筅が湯と粉を攪拌する。
まず稜而が茶碗を受け取り、茶碗を回し正面を外して、絵柄のないところへ唇を当てると、薄茶を吸って、ごくりと飲み干す。夕陽の中で喉仏が上下した。ごくり、ごくり、何度か繰り返されて、最後にすっと音を立てて泡を啜り、無意識に舌先が唇を舐めた。茶碗のふちを親指と人差し指が挟んで拭い、その指は懐紙へなすられて、手の中の茶碗が畳の上へ戻される。
遥はのぼせたような気持ちになりながら、ぎこちなく薄茶を飲み、同じように茶碗を返した。
ミコ叔母さんは役者が舞台を去るように、静かに道具を持って出て行って、そこでほっと空気が緩んだ。
「Fantastique ……。超、Fantastique」
遥は若草色の瞳で円相図の掛け軸を見ながら呟いた。
「どうした?」
「サドー、ちょー、très bien 。merveilleux ……」
「どこが?」
稜而が覗き込んだ遥の白い頬は薔薇色が増し、瞳は大きく見開かれて輝いていた。
「また遊びにいらっしゃいね」
ミコ叔母さんの言葉に、遥はハグで返事をすると、稜而の手首を掴んで隣の自宅へ帰った。
玄関ホールのソファへ稜而を突き飛ばすようにして座らせ、まだ置きっぱなしになっていたスーツケースから、気前のいいラブホテルでもらったマンゴーのドライフルーツを取り出す。
そして稜而の膝の上へ猫のように乗り上がると、指に摘まんだドライフルーツを、稜而の口へ宇宙船のようにまっすぐ突き出した。
「な、何だ?」
頭を後ろへ引きながらもドライフルーツを口の中へ受け入れると、その口許を舐めるように遥は見つめる。
稜而が咀嚼して飲み下すまで、じっくり凝視していたが、食べ終わると急に興味を失ったように離れてしまった。
「全然、サドーのほうがセクシー」
「は?」
「オレ、茶道を習うの楽しみーん! はいほー、はいほー、サドーがすきー!」
玄関ホールを横切って歩きながらそう言うと、そのまま来客用とは反対側にある内階段から二階へ上がって行ってしまった。
「ちょ、おい。スーツケースの蓋くらい閉めていけ!」
稜而は前髪を吹き上げ、スーツケースの蓋を閉めて、二階へ運び上げた。
渡辺家は、玄関共通の二世帯住宅で、かつては一階に祖父母が住み、二階に父親と稜而が住んでいた。祖父母が相次いで天寿を全うし、稜而が初期研修の寮生活を終えて帰って来るのをきっかけに、父親が一階へ移り、稜而が二階を占領することになった。
北側玄関上の吹き抜けを囲む凹型に部屋が配置されていて、玄関に一番近い部屋が稜而の書斎、その隣の北東の角部屋が遥に与えられた私室で、その二部屋の向かい側にキングサイズのベッドを置いた寝室がある。
寝室からバスルームとドレッシングルームを挟んだ東側にキッチンとダイニングルーム、プライベートリビングがあり、南側に大きなテレビを置いた広いリビングルームが配されていて、西側は来客をもてなすための和室とバスルーム、最後に稜而がギターを取り出した納戸があり、吹き抜けを回り込むように廊下を歩くと右回りに一周したことになる。
遥はまだ何も家具が揃っていない北東の角部屋の私室で、ドアを開け放ったまま、床に腹ばいになり、ノートに何かを書きつけていた。
「まっちゃのおいしい、おちゃしつ。しろいちゃわんに、おちゃ、おちゃ、おちゃ……。ひゅー! エル・オー・ブイ・イー、はるかちゃーん! はーい、私、遥ちゃんよー! 皆、今日はリサイタルに来てくれてありがとー! おーれは、はるかちゃーん、がーきだいしょー!」
「機嫌よさそうだな」
稜而が開いているドアをノックして声を掛けると、遥は「おーいえー!」と声だけ返事をした。
「日記?」
言いながら、稜而はうつぶせに寝ている遥の背中に覆いかぶさる。
「なんでも帳! つれづれなるままに、かきごおりにあまづらかけて、じゅうーにーがつのせーいーざーが、いちーばーん、いとおかし!」
遥の肩越しによく見てみると、広げていたのはノートではなくクロッキー帳で、何もない真っ白な紙に縦も横も関係なく、日本語もフランス語も英語も関係なく、イラストと文字が書き込まれている。
「見てもいい?」
さらに覗き込むと、ボールペンで、障子窓から差し込む夕陽、円相図、雲錦手の茶碗、うさぎ饅頭、茶釜、横から見た稜而の口許、そして微笑んでいるミコ叔母さんの似顔絵が描かれていた。
「上手いもんだな」
「誰にも見せないメモだって思って、適当に描いてるから、肩の力が抜けて下手でも上手く見えるんだ」
遥は絵を描き上げると、音、steam、Univers、EROS、せいじゃく、But NON せいじゃく、おいしー、ホットケーキ、などと文字を書き足して、ステッドラーの色鉛筆で鼻歌を歌いながら大雑把に着色した。
最後に日付を書き込むと、遥は背後に手を回し、稜而の尻を叩く。
「気のせい? 何かあたってる気がするんだけど?」
「さあ?」
言いながら遥の尻へ、ぐっと腰を押し付けた。
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