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第23話

「え? このクラス二人だけ?」 教員が入ってきて、(はるか)が驚いて教室を見回すと、建志(けんじ)が斜め後ろを指さした。 「三人」 指さした方を見ると、ストレートの艶やかな黒髪をマッシュルームカットにした青年が俯いて座っていた。 「おはよー! 本日は晴天なりー! 遥ラファエルジュンなのーん、遥って呼んでー!」  青年は小さく頷いた。 「……僕は、(ろん)」 「ロンロン、よろしくねーん」  論はまた小さく頷き、艶のあるマッシュルームカットがさらりとこぼれた。  遥は一番前の真ん中、教卓に接するほど近い席に陣取り、ミルクティ色の巻き髪をハーフアップにして、ヘアゴムでぎりぎりと結った。  さらに実用一点張りのウェリントンフレームの眼鏡を取り出すと、几帳面にレンズを磨いて掛ける。  身体の正面にルーズリーフを広げ、左側にテキストを置き、三色ボールペンを持つ。ルーズリーフには右から三センチほどのところに縦線、下から五センチくらいのところに横線が引いてあった。 「さーて、遠慮はいらんよ、存分に教えてくれたまえ! 遥ちゃんに医学部合格するだけの知識とテクニックを授けるのじゃ!」 教員は苦笑しつつ、教卓の上にテキストとノートを広げ、チョークを持って黒板に向かった。  一番最初の講義は生物で、建志が唸る。 「カタカナがわっかんねぇ……。対応する辞書って手に入るかなー」 「あらーん、ケンちゃん、カタカナに弱いのーん? 責められるとあーんってなっちゃうー?」 「カタカナは読めるけど、対応する中国語がわかんね。持ってる知識と日本語の教科書の内容が全然つながんねぇよ」 「たいくつーがおのー、おとなよりもー、よっぽどー、けんじー、べんきょうしたつもり、それでもまだ、にほんごべんきょうするのー、いいかげんにしてー! ……バイリンガルの道は一日にしてならないもんねー」  遥は小さく歌いながらルーズリーフの右端に棒人間がマイクを持って歌う姿をいたずら描きする。 「お前、余裕だな」 「入院中に勉強以外やることなかったからー、稜而の高校の教科書と参考書をもらって、全部読んだーん。遥ちゃんもバベルの塔にはいろいろ阻まれてるーん」 「ホント、バベルの塔は邪魔。親の母語が違えば、自然にバイリンガルが育つと思いやがって」 「わかるわーん。海外に住めば自然に言葉が身につくとか、そんなの寝ている間に身につく英語教材と同じくらい夢物語だし。結局勉強しなきゃ、何も身につかないのよーん! 喧嘩できるだけの勇気と度胸と信念とアイデンティティと語学力は必要なのーん」  遥はミルクティ色の巻き髪の毛先を鼻の下に挟んでもぐもぐした。 「食堂のラーメン、早いの、美味いの、安いのーん! 餃子もかりっともちもちジューシーよーん!」  予備校本館の二階にある食堂で、遥は餃子を口に入れてリスのように頬を膨らませ、さらに箸の幅いっぱいに持ち上げたラーメンを口に入れる。 「……あっふい(あっつい)。お、おほへふ(おぼれる)……っ。めーれー(メーデー)めーれー(メーデー)めーれー(メーデー)」 遥は上を向いて、はふはふと口を動かした。  向かい側に座っていた建志がプラスチックコップに満たされた水を差し出す。 「なんでそんなに口いっぱい頬張ってるんだよ、お前は鵜か? 鵜なのか? 観光客の前で、かがり火に照らされながら魚を飲むのか? 観光資源か? 伝統継承か? 少しずつ食えよ!」 「らって……、いひゃになっらら……。んがっくっく。医者になったら、早食いだって言ってたんだもん」 「まだ医学部にも入ってないのに、医者になるなんてずっと先だ。無茶するなよ。あーあー、骸骨まで口にお弁当つけちゃって……」 稜而から無断借用したカットソーは、骸骨が王冠を被り、マントを羽織って玉座に座っていて、ちょうど口のところにラーメンの切れ端がくっついていた。 「お弁当って何? 弁当なんて持ってきてないよー。朝、なかなか起きられなくて、愛妻弁当を作る余裕は、まだないのーん」 「口の端についた食べ物のことをお弁当って言うんだ」 「初めて知ったかもーん、べいべー! べびべびべいび、べいびべいびべいび、べいべー! にほんごっくわしいねー! おれにおしえてっ!」  遥はどんぶりを持ち上げて残っていたスープをすべて飲み干し、テーブルへ戻すのと同時に建志に訊いた。 「ねーねー、日本語詳しいなら、『どんぶり』の意味も知ってるー? なんかエッチな意味があるんだって、稜而(りょうじ)が言ってた!」  建志はむせてどんぶりの上に顔を突き出し、論も紙ナプキンで静かに口の周りを拭いた。 「お、お前、そこまでリョージが教えてくれたなら、最後までリョージに訊けよ!」 「だってー、セックスの最中だったから、途中で気持ちよくてわかんなくなっちゃったのー」 「こんなところでぶっちゃけるなよ!」 ぱしっと後頭部を叩かれて、遥は叩かれた場所を手で押さえつつ、ミルクティ色の髪を左右に振った。 「やーん。セックスだって、人間の自然な営みのひとつじゃんかー! 隠し事よくなーい!」 「究極のプライベートだろ! 隠せっ! 隠し通せっ! 墓場まで持って行けっ!」 「でもでも聞いてーん! 遥ちゃん、騎乗位ができるようになって嬉しいのーん。ちゃんと稜而のこと、いかせられるようになったーん!」 「そんなことぶちまけたら、リョージにぶっとばされるぞ!!!」 「稜而は怒んないもーん! 『遥、可愛い』ってめろめろぱーんちだもーん」 「絶対、嘘。見ず知らずのリョージに同情する」 建志はプラスチックのコップに入った水を一息に飲み、その隣で論が俯いたまま、小さく笑った。
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