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第25話
バイオクリーンルームでのオペが終わると、稜而はガウンを脱ぎ、通称宇宙服と呼ばれるフェイスシールド付きのヘッドカバーを頭から外し、換気ファンとモーターがついたヘルメットを外した。
ファンがついているとはいえ、扇風機のようにはいかず、髪は汗で少し湿っていて、七時間立ちっぱなしだった足は靴下を履いていても冷えてむくんで、だるさを感じる。
患者の家族への説明を終え、執刀医と前立ちを務めた二人の上級医と共に、手術の内容を振り返り、他愛のない世間話もしながら職員専用エレベーターに乗った。
先輩の前でも直立不動とはいかず、フェルトを張り巡らせた壁に背中を預ける。
「稜而先生は、最近は何のゲームやってるんだ?」
「やってませんね。面白いタイトルが出てないっていうのもありますけど、何より遥が賑やかで。あの、フランスから来た両足下腿骨折」
「交通外傷の髄内釘か」
「はい。あいつと遊んでる時間がほとんどです」
「入院中も懐かれてたもんなぁ」
「そうですね。俺は一人っ子なんですけど、弟がいたらこんな感じなのかなと思います。向こうがどう思ってるかは知りませんけど」
エレベーターで四階へ行くと、ドア脇のセンサーにネームプレートをかざして解錠し、総合医局へ足を踏み入れる。
すべての診療科の医師たちがデスクを置いていて、誰の机の上も書籍や書類が積み上げられている。稜而は整形外科のデスクが集められている場所へ歩き、部長から一番離れた末席に座って、遥に渡された紺色の巾着袋を開けた。
「本当に遥が作ったのか?」
遥は巾着袋を手渡しながら「あーん、キャラ弁じゃないのー。遥ちゃん、日本食が恋しい自分の為のお料理しかしないから、実用一点張りーん! ぱりーん、ぐりーん、ちょりーん! グリンピースなのーん!」と言っていたが、高級料亭の仕出し弁当のような整った盛りつけで、稜而はその出来栄えに首を傾げる。
「買ってきて詰め替えたのか? それでも充分だけど」
メニューは鶏の唐揚げ、野菜の炊き合わせ、青菜のおひたし、だし巻き玉子、煮豆で、珍しいものは入っていなかったが、ひとつひとつが丁寧に作られていて、さらに葉蘭やおかずカップを駆使して鮮やかに盛りつけられていた。
「いただきます」
箸箱から取り出した箸を親指に掛けて両手を合わせ、黄色いだし巻き玉子を口にした。
「甘い。……でもこの味はアリだな。美味い……」
鶏の唐揚げは、衣はサクッとした歯ざわりで、肉の下味がガッツリと効いていて、午後の競技も頑張れそうな運動会の味がした。
「唐揚げ、揚げたてだからって、網の上で冷ましていたよな? 玉子焼きも焼いていた……。遥が作ったんだよなぁ?」
稜而を腰にまとわりつかせたまま、「あーん、危ないのーん!」と言いつつ、四角いフライパンにキッチンペーパーで油を薄く塗り、ボウルの中で溶いた卵液を数回に分けて流し入れ、そのたびに菜箸で筒状に丸めていた。
「これ……、また作ってほしいと言っていいのかな……?」
出されれば食べるが自分からはわざわざ食べない椎茸も、しっかりと味が煮含められていて、軽く生姜の香りがして菌くささが気にならず、つるりとした舌触りと弾力のある歯触りが心地いい。
「この椎茸、あと二、三枚入っていてもよかったな。……はあ、もうごちそうさまか……」
箸先を唇に当てたまま、空っぽになってしまった弁当箱を見下ろし、見えない耳と尻尾をたらんとたらして、稜而はゆっくり弁当箱を片づけた。
「はぁーい、Mon キャベツー!」
夕方、地下三階の職員専用駐車場の片隅で、稜而のカットソーを着た遥は手を振り、稜而は軽い駆け足でその前に立った。
「ごめん、待たせて。なかなか患者が途切れなくて」
互いの額が触れそうな近さで、稜而は言う。
「いいのよーん。当直お疲れ様なのよー!」
稜而は空の弁当箱が入った紺色の巾着袋を差し出した。
「これ、ごちそうさま。全部美味かった。見た目にも素晴らしくて、正直驚いた」
「よかったーん。久しぶりに作ったから、ちょっとドキドキだったのーん」
弁当箱を胸に抱えてぴょんぴょん跳ねる遥の腰を、稜而は周囲をよく見回してから抱き寄せた。
「あの……、本当にありがとう。無理のない範囲で、気が向いたらでいいから、よければまた作って欲しい」
「きゃー! よろこんでー! お勉強とセックスが忙しくないときに、気が向いたら作ってあげるーん」
「セックスが忙しくないとき、か。それは難しいな」
稜而は苦笑して前髪を吹き上げ、ジーンズと背中の隙間へ手を差し入れて、遥の感触を楽しむ。
「やーん! でも、今日は稜而は当直で、あーんってする暇ないから、遥ちゃんは忙しくないのーん。気が向いてるから、明日も届けてあげるーん!」
「勉強は忙しくないのか?」
「まだ十七歳だもん、受験資格得るまでに、あと一年あるのよー!」
「十七歳に手を出す俺も、なんだかなぁ……」
「いいのー! 遥は稜而の妻だからー!」
はしゃぐ遥に、稜而は急に硬い声を出す。
「俺は、妻は求めてない」
「もう、何で意地悪いうのー? 妻、嫌いなのー?」
間近で見上げる遥の若草色の目を見返して、稜而は少し考えてから頷いた。
「そうかも知れない。妻の役割を担って幸せだと思う母親じゃなかった。そんなに面倒で苦しいなら、無理に妻になんてならなくてよかったのにと、そう思う」
「そっかぁ。遥のママンはパパと結婚して幸せな妻だったから、遥はそれもいいと思うんだけどー。考えとくー」
「うちは家政婦さんも来てくれてるし、食事は外食とコンビニでいい。だからとにかく無理はしないでくれ。笑顔でいてくれることが一番嬉しいから……」
遥のミルクティ色の髪に鼻先をうずめながら、稜而は言った。
「うん。家政婦のむにさんに、さっき初めて会ったーん。エプロンの紐が縦結びなこと以外、何でも完璧で、魔法使い! きっとサマンサなのー」
「仕事はプロに任せる方がいい」
「そうなんだねぇ。お手伝いしますって言ったけど、全然、手を出せるところ、なかったーん。ずっと後ろをついて歩いて社会科見学ぅ。パンツも洗ってくれてて、ちょっと恥ずかしかったーん。あ、お家で猫ちゃん飼ってるって言ってたーん!」
「猫を飼っているなんて初めて聞いた。彼女に関しては、もう俺より詳しいな」
遥の額にキスしたとき、胸ポケットのPHSが鳴動した。
「はい、稜而です。……ええ、はい。わかりました、すぐに行きます」
「稜而先生、お仕事ーん」
「ごめん。また明日」
稜而は遥を抱き締め、ドレンチェリーのような赤い唇に自分の唇を押し付けると、すぐに走って行ってしまった。
「やーん。遥ちゃん、キスして目を閉じてる間に置き去りなのーん。一人で空中に向かってキス顔しちゃったーん」
唇をそろえた指先でそっと覆いながら呟き、軽やかな深呼吸をすると、遥も飛び跳ねるような足取りで自宅へ向けて歩き出した。
「せんせいっ、せんせいっ、りょうじせんーせーいー!」
稜而の個人的な経験上、近隣のクリニックが開院しているような早い時間から患者がやってくる日の当直は荒れる。二次救急にもかかわらず、救急車祭りと言っていい状態で、稜而はひっきりなしに先生、先生、稜而先生と呼ばれ続け、人々が寝静まる午前二時過ぎまで、休む時間もなく診察を続けた。
「こんなに荒れたのは初めてかも。遥の弁当を食べていたから、乗り越えられたかな……?」
当直室のベッドに寝転がり、ふっと前髪を吹き上げる。
携帯の待ち受け画面は、稜而が車を運転している隙に遥が勝手に設定した、遥の自撮り写真だ。助手席に座り、上目遣いにレンズを見て、笑顔でウィンクをしている。
「ん、留守電? 何があった?」
待ち受け画面を見て着信と留守電に気づき、再生ボタンを押した。
『もしもし、遥です。あのね。稜而、お仕事お疲れ様。…………えっと、おやすみなさい』
稜而は携帯の中に残された遥の声にプロテクトを掛け、疲れた身体を横たえながら、何度も再生ボタンを押して受話器に耳を押しあてた。
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