26 / 191

第26話

「サンクスっ! サンクスっ! サンクスっ! サンクスっ! はーるかー! ……やーん、どういたしましてーん! 全部食べて、いちゃいちゃ熱いチューまでしてくれて、ありがとうなのーん!」 家政婦のむにさんに習った手順で、空になった弁当箱を食器洗い乾燥機のかごに並べ、洗剤を入れ、ボタンを操作して、遥は「よろしくねーん」と、食洗器に投げキッスをした。 「さーて、宿題終わらせちゃおっと」 書斎へ行き、実用一点張りのウェリントンフレームの眼鏡をかけ、左手首に嵌めたヘアゴムで髪を束ねようとして、夜の窓に自分の姿が映った遥は突然歌を歌い出した。 「はいけーい、このしゅくだいー、おわらーせるためにはー、ここでー、テキストをー、ひろげるのー。……ちょっとだけ似てる気がするんだよねー、誰とは言わないけどー。遥ラファエルアンジェラなのーん。……あ、Monsieur(ムッシュ) Squelette(スクレット)、こんばんはー! 稜而のデスク借りるねーん」  骨格模型に挨拶をして、デスクに向かってテキストとルーズリーフを広げ、左右の耳を大きなヘッドフォンで覆う。 「やーん、ここでエロエロセックスしたこと、思い出しちゃうーん。楽しかったー!」 朗らかな声でおどけるのはそこまでで、遥は広げたテキストに向かうと、その文字列へ素早く目を走らせ、猛然と三色ボールペンを動かし始めた。  一目で見て解法が分かる問題に〇印をつけ、ルーズリーフに式と答えを書く。合っていたら、〇の中にもう一つ〇を描いて◎にする。 解法がすぐに思い浮かばないものは△、まったくわからないものは×と、遥なりの基準で印をつけながら問題を解いていく。神経を張り詰めて、わずかなインクの掠れも睨みつけてボールペンを投げ出し、別の三色ボールペンに取り替えて問題を解いていく。  ヘッドフォンの先はどこにもつながっておらず、ただ優しく周囲の音を遮るのと、見た人が音楽を聴いているのだと勘違いして返事をしない遥を許してくれるのを期待して装着していた。  ふっと顔を上げると、たいてい四十五分が経過している。  遥は時計を確認しながら背筋を伸ばして深呼吸し、数回強い瞬きをすると、また数学の海へ潜っていく。  二度目に顔を上げると、今度はインスタントコーヒーを淹れて一杯飲んで、化学の問題集を広げて四十五分。終わると前日の朝刊を手にバスルームへ向かい、全身を洗い上げてから、ミネラルウォーターを片手に、バスタブの中で一日遅れの新聞に目を通す。 「そばかすっ、なんてっ、きにしちゃうわ! 遥キャンディキャンディは、ビタミン美白パックーぅ!」  ドラッグストアで買った美白効果を謳う美容液が染み込んだマスクを顔に貼り付けてから、新聞の中でわからなかった言葉を文章ごとノートに抜き出し、日本語と英語とフランス語の三か国語を調べ、意味と用法を書き込む。  さらになんでも帳と名付けているクロッキー帳を広げ、思い浮かんだことを自由に書きつけ、空っぽになった弁当箱や、紺色の巾着袋を持つ稜而の似顔絵や、大きなキスマーク、たくさんのハート、妻の役割、ちょっとかなしい思い出、笑顔でいてくれ、稜而は笑顔が好き? などの言葉を書き込んでベッドにうつぶせに倒れ込む。 「稜而がいないベッドは寂しいのーん……。でもおならもいびきも自由なのーん。稜而がいても二人でぷうぷうしちゃうけどー。ひとりのおならは格別ぅ」  膝を曲げ、ショートパンツを穿いたお尻を突き上げて、ぷうっとガスを出して赤い唇を尖らせる。 「もっと稜而みたいに、かっこいいおならしたーい。空飛べそうなやつぅ!」 手足を伸ばしてぱたぱたとバタ足をし、再びお尻を突き上げたが、ぷすんっと小さなガスしか出ず、諦めて布団にもぐりこんだ。 「当直頑張ってるけど、オレは寝ちゃうね。おやすみーん、キャベツ……」  部屋の照明を絞って、しばらく寝返りを打ち、布団を身体に巻き付け横向きになってぼんやりした。 「やーん。ひとりぼっちなのに、ドキドキなのーん……今日の会話、全部リフレインが叫んじゃうの……。ぎゅってされて、ちゅーされちゃったーん」  隣に置かれた稜而の枕へ手を伸ばし、端っこを少し撫でる。それからおもむろ起き上がって、手櫛で髪を片耳の下へかき寄せ、充電中の携帯を手にした。  バックライトに照らされて目を細めながら、登録して間もない番号を呼び出す。 「……あーん、どうしよっかなー。えっとね、電話に出ちゃったら、間違い電話なの……。ごめんねってすぐに切るの。でもお願い。稜而は電話に出ちゃダメ、留守電になって。留守電……」 遥の願いは通じて、数回コールした後に自動音声に切り替わった。  遥は目を閉じてゆっくりと息を吸い、発信音が鳴ると、きつく目を閉じたまま、携帯電話を両手で握り締めて話した。 「もしもし、遥です。あのね。稜而、お仕事お疲れ様。…………えっと、おやすみなさい」  急いで通話を切って、遥は胸に溜め込んでいた息を吐き出した。 「はあっ、緊張しちゃった……。やーん、変な留守電しちゃったかも。どうしたの、急にって思うかも。でもでも、遥もどうしたの急にって思ってるの。……どうしよう、今のなかったことにして。間違い電話だったのって言っちゃおうかな……。でも、稜而って言っちゃったよ……」 広いベッドの隅で頭から布団をかぶって、遥は布団のテントの中で携帯の画面を見つめ続けた。 遥の待受画面は、車を運転している稜而が信号待ちのときに、わざわざサングラスを頭の上に押し上げ、レンズを見て笑ってくれた顔で、その画面を見るだけでも、遥の心拍数は上がる。 「気づかないで、稜而。遥の留守電、気づかないで。……でも、気づいてほしいかも……。ううん。あーん、どーしよ……。明日はお弁当を届けるのにー……。ドキドキぱんちなのーん……。変なのー、こんなの変なのよー……、どーしよー!!!!!」 かぶっている布団ごと、ぶんぶんと頭を振り、全身に布団を巻きつけたまま、ベッドの端から端まで転がる。 「心臓、壊れそうなのよー……。遥ちゃん、ビョーキなのー? なんでー?」 寝室の天井を静かに見上げて、揺れながら見た景色を思い出し、そのときの眉間に力を込めた稜而の顔や息遣いも思い出して、遥はまた布団をぎゅっとした。 「だめー。明日もお弁当を作るのよー! 夜更かしはお肌にダメなのー。つるつるのチューしたくなるお肌で、美味しいお弁当をお届けなのよー。ラフィ、早く寝なさい。でもパパ、ラフィは心臓がぱくぱくしてて、寝ていられない気持ちなの。目を開けても、閉じても、ずっと稜而の顔なの。パパも、ずっとママとラフィの顔、見てた……? パパとママンもめろめろぱんちでドキドキぱんちだったの? 心臓がスクイーズで、レモン味で、ベッドの上をゴロゴロだったの? …………睡眠不足はダメよ、寝なさい遥」  頭を振って、遥は枕に頭を乗せ、肩まで布団を掛けて目を閉じ、自分の手で自分の肩をとんとんと優しく叩いた。 「遥ちゃん、夜ですよ。早く寝なさい。考え事はまた明日!」 遥は手探りで稜而の枕を手繰り寄せると、きゅうっと胸に抱いた。 「日向ぼっこの匂い、なの……」

ともだちにシェアしよう!