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第27話

 朝の総合医局は、一晩中闘い続けた脳外科医や心臓外科医が並べた椅子やソファに倒れ込み、麻酔科医は白っぽい顔でサマリーを入力している。  ――これから家を出るね  遥からのメッセージを受信して、当直明けの稜而も鏡の前で自分の姿を確認する。  明け方、シャワーを浴びたので身なりはさっぱりしているが、白目は充血していた。ポケットから目薬を取り出して顔を上に向けたが、そこで止め、目薬はそのままポケットに戻す。 「弁当を受け取ってきます。すぐ戻ります」  隣の席に座る先輩に一言告げて、地下三階の職員専用駐車場へ行った。  遥は今日もリュックサックを背負い、勝手に稜而のシャツを着て、コンバースを履いた足でぴょんぴょん飛び跳ねながら、稜而に向かって手を振った。 「おはよう。……留守電を聞いた。ありがとう」 「やーん。何か照れちゃう」 遥は両手を腹の前で組んで、俯いたまま左右に肩を揺すった。 「そう? とても嬉しかったけど」  稜而が俯く遥の顔を下から覗き込んでしっかり若草色の瞳を見ると、遥は唇を少しすぼめ、微笑んでからそっと目を逸らし、また稜而の目を見た。 「稜而、目が赤いね。……大丈夫?」 人差し指の先でそっと稜而の目元に触れ、稜而はニッコリと目を細める。 「そう? 遥がキスしてくれたら治る」 「迷信」 「病は気から」  もっと顔を近づけてねだると、遥は稜而の左右の目尻に一つずつキスをした。 「ありがとう。これで治る」 そう言いながらポケットから目薬を取り出して、差して見せる。 「もぉ、目薬の効き目じゃん!」  遥は稜而の肩を指先で突いて笑い、その笑顔を見て稜而も笑った。 「えっと、これ。よければ食べて」 遥は紺色の巾着袋を差し出した。 「ありがとう。昼が楽しみだ。大切に食べる」  稜而は周囲を見回してから、遥の手を引いて自分の胸に引き寄せ、ドレンチェリーのように赤い唇へ、自分の唇を押し付けた。 「今日は何の授業?」 「化学と数学」 「俺の得意科目だ。頑張ってこい」 「わからないところがあったら、教えてね」 「全部理解できたら、そのときもご褒美をやるよ。キスする口実はいらないから、疑問点を残さないように、しっかり授業を受けてこい」 「うん。しっかり勉強してくる」 「先生さようなら、皆さんさようなら! さよーんなーら、さよなんらー、げんきでまたあしーたーん! すーきなーふたりーは、こーれからあえるぅ!」  予備校の帰国生クラスが終わって、遥はリュックサックを背負い、建志と論と一緒に階段を下りた。  夕方からは現役生のクラスが始まるので、建物の中は高校の制服を着た生徒の姿が多くなる。 「今の人、めっちゃヤバくない?」 「お迎えかなー?」 女子高生二人が肩をぶつけ合いながら階段を上がっていくのとすれ違った。 「やーん、ヤバいお迎えって、死神かしらーん?」 「お前の発想って、素直じゃないよな」 「身体の反応は素直よーん!」  最後の一段を両足を揃えて飛び降りて、事務室の前を通過し、正面玄関に立ったとき、遥はひゃあっと悲鳴を上げた。 「何だよ、急に?」 「キャベツぅぅぅぅぅ!!!!!!!」 予備校の真正面に堂々とスポーツカーを停め、ガードレールに腰掛けて、遥の姿に軽く片手を挙げて見せる。 「走るな! ストップ!」  遥の代わりに左右の安全を確認し、稜而が遥に向けて手のひらを見せて制止するのと、背後から建志がリュックサックを掴むのと、遥の目の前を自転車が横切って行くのが、すべて同時だった。 「危なっかしい奴」  建志に犬のリードのようにリュックサックを掴まれたまま、遥は稜而に向かってぐいぐい歩いた。 「リョージさん?」 真っ赤に染めたスパイクヘアを揺らす建志に、稜而は王子様の笑顔を炸裂させる。 「初めまして。建志くん、かな? ウチの遥が世話になってるんだってね」 「……どうも」 「やーん! キャベツ、どーしたのーん?」 遥は二人の挨拶に関係なく、稜而の首に腕を絡め、左右の頬を交互に触れさせながら、口の中で派手なキスの音を立てる。 「直明けの日は、早く仕事を上がれるから……」 言いながら、稜而も遥の頬に軽いキスをして応える。 「ねぇ、ねぇ、ラーメン食べたい!」 「いいけど、また? お前、ラーメン好きだな」 「スーパーマーケットに行こっ! 遥ちゃん特製野菜たっぷりあんかけラーメン作る! 十七歳男子も満足のボリュームなのーん。ニラも入れちゃう。二人で食べれば、キスもおならも怖くないのーん!」 「明日の仕事は怖いけどな」 「あーん、ニラは加熱時間を長くするし、緑茶を飲みながらお食事すればいいし、食後にゆーっくりお風呂に入ったり、軽・い・運・動♡で汗をかいたりすれば、大丈夫なのよ ー!」 あごの下で両手を組み、稜而に向かって首を左右に振りながら話す。 「風呂と軽い運動」  稜而はつい緩んでしまった口許を手で覆い、表情を戻してから、遥の頭をぽんぽんと撫でた。 「わかった。一緒に買い物をして帰ろう。……じゃ、建志くん、また。ウチの遥をこれからもよろしく」 「よろしくなのーん! また明日ねー!」  アスファルトに吸いつくようにして走り去るスポーツカーを見送ると、論が背後からそっと声を掛けた。 「建志」 「別に。俺、今日は寮のメシはパス。ラーメン食って帰る」 「僕も行くよ」 「来なくていい」 装飾過多なブーツで地面を蹴って、建志は寮とは反対方向へ歩いて行ってしまった。 「建志……」
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