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第35話

「つい会話に夢中になって、お渡しするのが遅くなってしまいました。今日はお招きいただきありがとうございます。こちら、お口に合うといいんですけど」 論は軽く首を傾げ、柔和な笑顔を浮かべてチョコレートの箱を差し出し、稜而は「お気遣いありがとう」と笑顔で受け取った。 「あーん。ロンロン、大人なのーん。『こちら、お口に合うといいんですけど』。ん、コホンコホン。『こちら、お口に合うといいんですけど』。お口に合うと……。妻です♡」 遥は身体の前で両手を重ね、誰もいない空間に向かって小首をかしげて微笑み、ぴょこんと頭を下げた。  建志はお辞儀をする遥と、誰もいない空間とを見比べる。 「お前、何やってんの?」 「ホームパーティーにお招きされたときの練習! 『いつも稜而がお世話になっております。稜而の妻です。本日はお招きいただきありがとうございます。こちら、お口に合うといいんですけど』。言えたー! おーいえー! ヤマトナデシコに合格ーぅ! 遥ちゃん、よくできましたー! いいこ、いいこ」 自分で自分の前髪を撫でた。 「お前、本当に面白いなー!」  建志は遥の前髪をいいこ、いいこと撫で、稜而は片頬を上げて笑った。  稜而はキッチンに立ち、納戸から発掘した呉須青絵(ごすあおえ)の皿に、香り米を混ぜて炊いた白米と、一晩煮込んだ特製カレー、焼いたあとに煮込んだ鶏肉、素焼きした野菜を盛り付ける。 「稜而先生、お料理上手ですね」 論が褒めている声が聞こえて、遥は素早くキッチンへ駆けつけた。 「俺はこれしか作れないんだ。遥のほうがずっと料理上手だ」 遥は、おーいえー! と、バレエ団のプリンシパルになった気持ちで、その場で両手を上げ、片足を軸に一回転した。 「でもこんなにこだわったお料理は、さすが男の料理という感じがして素敵です。食欲が刺激される香りで、頂くのが楽しみです」 論は稜而を見つめたまま微笑む。遥はもう一回くるりんと回ったが、論の視線は稜而に注がれたままだった。 「おーいえー……?」  カレーライスとサラダをダイニングテーブルへ運び、揃って食べ始めてからも、論は絶え間なく稜而へ話し掛けていた。 「先生は、どうして整形外科を選ばれたんですか?」 「どの外科よりも扱う範囲が広くて、患者さんに対してできることが多いから。人間の運動器の精巧さにもロマンを感じる」 「あーん、ロマンなのーん!」 遥は、スプーンを両手で握り締めて頭を左右に振ったが、論は目をくれることなく会話を続ける。 「整形外科と言っても、範囲は広いと思いますけど、どの分野のご専門なんですか?」 「特にまだサブスペシャリティを決めるところまで行ってないし、オールラウンダーを目指したい気持ちもある。論くんは、何科を志望してるの?」 「実は、整形外科なんです」 照れたように告げる論に、稜而は目を大きく開き、笑顔になった。 「それは嬉しいな。マイナー科なのに関心を持ってくれるのは嬉しい」 「建志には向いてなさそうって言われるんですけど。『鈎引き三年、足持ち八年』なんて言われる世界だから、ついていけないんじゃないかって」 「コーヒキサンネン、アシモチハチネン? 隣の客はよく柿食う客だ?」 遥が首を傾げると、稜而が口を開くより先に論が説明した。 「整形外科は範囲が広くて、一人前になるまでの下積み期間が長いという意味だよ」 「ほええ。ロンロン詳しいね……」 「そういう道を志される稜而先生を尊敬します!」 論は稜而を真っ直ぐに見て、マッシュルームヘアを揺らして笑った。 「俺はそんな大したことないよ。もっと素晴らしい先生方がたくさんいらっしゃる。でも、論くんが同じ道を歩む同志となってくれるのを待ってるよ」  稜而もまた王子様の笑顔を論に向け、その笑顔に論も柔和な笑顔で応えた。 「むーん。遥ちゃんも整形外科に行こうかな、なのーん……。まわるー、まーわるーよ、カレーはまわるー。にんーじんーも、たまねぎーも、まぜーこんでー、きょうはー、やーかれーた、とりーにくたちーも、しょうかされたらー、じしゅきせーいー……。お食事中だから内緒なのーん……」 スプーンでぐるぐると皿の中のカレーをかき混ぜながら、遥は呟いた。 「遥は、呼吸器内科へ行く夢はどうした? 父さんが自分の後輩ができるって喜んでたぞ」 「そうなんだけどー……。患者さんの呼吸を楽にしてあげたいんだけどー」 「自分が追究したいと思う科へ行くのが一番いいぞ。勉強していくうちにまた考えも変わって来るけどな」  稜而が遥へ向けて目を細めると、論がまた言葉を投げかけてくる。 「稜而先生はずっと整形外科を目指していらしたんですか」 「俺はずっと外科医になりたいと思ってたよ。ありきたりだけど『ブラック・ジャック』を読んで憧れたから。でも、ローテートしたときに整形外科の明るい雰囲気や体育会系の分かりやすい人間関係に居心地の良さを感じたことと、扱う範囲の広さや深さに魅力を感じて、整形外科にした」 「た、たいくは嫌いなのん。ちっちゃい遥ちゃん、逆上がりできなくても泣かなくていいのよ……。先輩も後輩も一緒にパンを買いに行けばいいと思うのよ……」 遥は深く溜息をついた。
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