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第37話

「論、マジで稜而さんから離れろって……」 建志の呼びかけに、論はまたマッシュルームカットを振る。 「いやっ! もう僕は稜而先生の妻になるって決めたのっ! 建志がお嫁さんにしてくれないのが悪いんだっ! 十八歳になったら結婚してくれるって言ったのに!」 「はああああ? いつの話だよ?」 「僕、昨日でとうとう十九歳になっちゃったよ! 一年間待ってたのに!」 「あー、昨日、誕生日だったっけ……」 「建志はいっつもそう! 僕が何を言ったって、ろくに僕の顔も見てくれなくて、生返事ばっかり! 右から左! 次から次から男も女も関係なく美人に弱くて、すぐ一目惚れして、『あいつ、いいよなぁ』って、全然よくないから! 僕のほうが美人だし、尽くすし、貢ぐし、世話もするし、スタイルだっていいし、ピアノだって弾けるし、ドイツ語も英語も北京語も台湾語も日本語も喋れるし、親だって資産家だし、僕と結婚したら労せずして財産が手に入るし! 幼稚園のとき、僕がお嫁さんになりたいって言って皆に笑われてたとき、ジャングルジムの上で『大きくなったら俺が論をお嫁さんにしてやるからな』って約束して、頭の上に風呂敷を乗せてくれたのに! ファーストキスだってそのときだったのに! すぐに同じクラスのメイをデートに誘ってブランコに乗って、小学校に入ってメイと離れ離れになったら気持ちを切り替えて、今度はサクラ! クラス替えしたらトオル! その次はジェンウーで、その次はリン! 中学生になったら年上狙って、数学のサイトー先生、社会のスズキ先生! 同じクラブの一学年上のナツキ! しかも『ガキの頃のキスはカウントしない』とか言って、ファーストキスの相手はナツキだって決めちゃったし、じゃあ、僕は何な訳? やり逃げされってこと? 僕がウィーンに留学するって決まったときも、『ふうん。行けばいいだろ』ってそっぽ向いたままで、空港にも来てくれなくて。国際コンクールの本選を突然聴きに来てくれたのは嬉しかったけど、頑張って金賞獲ったのにキスもしてくれなくて、すぐ『じゃあな』って帰っちゃって、表彰者コンサートだってチケット送ったのに何の返事もくれなくて、あとから建志が来てたって聞いたって、舞台の上で緊張してるときに、客席に建志がいるかどうかまではわからないんだからっ! 僕が肘を痛めて弱気になってメッセージしても返事をくれなくて、次にメッセージしたら『日本にいる』って言いだすし。しかも『医者になる』って何なの! 大きな葬儀屋さんの御曹司が『整形外科医になる』って、お父様とお母様まで怒らせて、訳わかんない!」 論は建志に向けて一気にまくし立てたが、建志はバルコニーの柵にもたれて、目の前のタイサンボクの木を見ていたが、その耳は真っ赤に染まっていた。 「ほら、また聞いてない! いつだって僕のことは無視! 遥のことが好きなんでしょ! 僕が稜而先生と付き合うから、建志は遥と付き合えばいい!」 「あーん、勝手に決めちゃいやーん! 遥ちゃんは稜而がいいのーん!」 遥は稜而の腕にしがみつき、さらに身体の側面で論の身体を押し出そうとして、動かない論と小競り合いになる。 「遥、喧嘩しないで、こっちにおいで」 稜而は腕にくっついている遥を自分の腕の中へ抱いた。 「でも、でもーん。稜而の妻は遥ちゃんなのよーん」 「わかってるけど、遥は少しお口にチャック。……建志くん、どうして整形外科医になりたいのかな?」 遥は自分の口のファスナーを閉める仕草をし、建志は耳を赤くしたまま、しばらくタイサンボクの厚くて艶のある葉を見ていた。 「ほら、すぐ無視する! 自分に都合の悪い質問は、絶対に返事しないんだからっ!」 「論くんも、お口にチャックしよう。俺は今、建志くんの返事を待っているんだ」 遥が論の口の前でチャックを閉める仕草をして、論は盛大な溜息を吐きつつ、口を閉じた。  ざあっと風が吹いて、タイサンボクの葉が揺れた。葉の裏側の錆び色と、表側の濃い緑色が交互に見えて、きらきらした。 「論は、逃げるな。ピアノを弾くことから、逃げるな。せっかくエージェントとの契約もできたんだから、ピアノに戻れ」 「嫌っ! 僕は日本で、建志と一緒に整形外科医になる!」 「お前が医学部に入って、誰が喜ぶんだよ? 俺は嬉しくないからな!」 「僕が嬉しいの! 建志と一緒にいられる僕が嬉しいから、いいの! もう肘も痛いし、ピアノは弾かない!」 論はまた稜而の胸にすがりついた。 「……その肘は俺が診てやる。整形外科医になって、世界中どこへ行っても、俺が診てやる」 遥は目を丸くし、顔を真っ赤にしている建志と、まだ稜而のシャツにしがみついたままの論を見比べてから、稜而の顔を見上げた。  稜而は遥の目を見返して、目を細める。 「ら、らぶらぶなのーん!?」 ぴょんぴょん飛び跳ねる遥の頭を、稜而の手が優しく撫でた。 「で……、でも。でも、建志は僕のピアノなんて聴いてくれないじゃないか!」 「一日十何時間も弾くピアノを全部は聴いてはいられないけど、発表会やコンクールは聴きに行ってるだろ」 「でもすぐに帰っちゃう」 「テストに合格しなきゃ、高校も卒業できないし、医者にもなれない。国際コンクールの表彰者コンサートの日は、次の日から卒業試験だった」 「だったらそう言ってくれればいいだろ」 「言ったら、お前はまた俺を気遣ってメールして来たり、手編みの腹巻や靴下を送ってくるだろ。そんな時間があったら、本番で成果を出すことに集中しろ」 「ロンロン、尽くす男なのー……」 稜而に口の前でチャックする仕草をされて、遥は口を閉じた。 「なんで……。いつもまともに目も見てくれなければ、返事もしてくれないのに」 論はタイサンボクの葉を睨みつけるようにして見ながら、大きく深呼吸した。 「そんな……。そんな、本当に好きな奴の目なんか、そう簡単に見れるかっ! 留学するって言われて、行くななんて絶対言えない。論のピアノはたくさんの人に聴いてもらうべきだ。俺が嫌だ、離れたくないなんて言ったら、お前はチャンスをあっさり捨てるだろ。言えるか!」 「建志(ジェンヂー)……」 「什么(なに)?」 「我喜欢它(だいすき)」 「白痴(バカ)」  稜而がそっと論の肩に手を置き、押すようにすると、論は建志の背中目掛けて駆け寄り、思い切り抱き着いた。 「あっぶね! 落ちたらどうするんだよ!」 「建志が整形外科医になって、治せばいい!」 「その前に死ぬだろ!」 「僕が重たくしがみついててあげるから、大丈夫」 「お、おう。しっかり掴まってろ」 「うん……」 建志の背中にしがみついて、論はうっとり目を閉じた。 「今日のロンロン、人の胸とか背中とかいっぱいくっついて、コバンザメちゃんなのーん」 「遥は俺にくっつかないのか?」  稜而に顔を覗き込まれ、遥は頬をバラ色に染めながら、稜而の胸に抱き着いた。 「遥はキャベツの芋虫ちゃんなのよー!」

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