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第44話

 再開発地区の高層マンションの一階にある『割烹 渡良瀬』は、板前を囲む白木のカウンター席と、四畳半と六畳の座敷席。二十人も入ればいっぱいになってしまう小さな店だった。 「いらっしゃいませ」 折り目正しい挨拶をする板前は、短く刈った頭に糊の効いた白い帽子を乗せ、紺色のネクタイと白いワイシャツの上に割烹渡良瀬と刺繍した前ボタンの白い割烹着を着て、カウンターの内側にいた。目つきは鋭く、声は低く、笑顔はなくて、遥は稜而の後ろに隠れる。 「ちょっと怖い感じなのよ……。遥ちゃんみたいなふざけた子は大きな声で叱られて、竹刀で叩かれると思うのん」 「ん? 平気だよ。大将(たいしょう)は魚はさばけるけど、蝿は殺せないくらい気が優しいから。人を叩くのが嫌で剣道を辞めたんだ。人に刺されそうになったことはあっても、刺そうとすることはない」 「刺され……。討ち入り? 武士? サムライ?」 「結婚を願い出て、相手の父親に刺されそうになった」 「ひええ……」 「無事に結婚できたし、今ではこうやって店を任されるまでになったから大丈夫」 稜而の説明が耳に届いて、大将は菜箸を手に小鉢に湯葉を盛り付けながら、白い歯を見せていた。 「笑うと優しいお顔なのん」 「いらっしゃいませ。お座敷へどうぞ」  撫子色の二部式着物を着て出迎えてくれた女性に稜而は気さくに笑い掛け、遥は横目でしっかりその笑顔をチェックする。 「和風美人なのん。稜而は美人に弱いのよ……」 とても小さな声で呟き、目玉だけを動かして二人を見比べる。 「今度はどうした? サチは大将の奥さんで、俺たち三人は小学校の同級生。剣道教室も一緒に通っていたんだ。幼馴染だ」 「そ、そう……。やーん、遥ちゃんったら、失礼しましたなのん。サチさんが美人だから、ドキドキしちゃったのよん」 急に元気を取り戻して、遥はバラ色の頬を持ち上げ、満面の笑みを作った。 「初めまして、遥ラファエルです。稜而のつま……こい……、お、弟でーすっ! きゅるんっ!」  稜而の腕に自分の両腕を絡め、首を傾けて挨拶する遥の姿に、その場の全員が笑顔になり、遥もホッとして一緒に笑った。 「おーいえー、乾杯なのん!」 理事長と母親と稜而はグラスに注いだビールを持ち、遥はオレンジジュースを注いだコップで乾杯をした。 「お酒は苦いから、遥ちゃんはお酒は飲めなくていいのーん、っていうのはただの強がり、拗ねてるだけなのよー、ちくしょー早く堂々と飲みたいぜ!」 「お前、どうして酒が苦いって知ってる?」 「あーん、そこは追及しちゃいけないのよー! ……でも……」 遥は隣に座る稜而の耳を両手で覆い、口をつけて小さな声で言った。 「稜而のが苦いって知ってる理由は追及してもいいのよん」  稜而は軽くむせかえり、おしぼりで口元を押さえた。 「お前なぁ……」 「さっきの仕返しなのよー!」  互いの膝を叩き合う間に、先付から順にテンポよく料理が運ばれ、遥はその皿の一つ一つに喜びながら、食事をした。 「さあ、遥がご希望の鍋料理が来た」 テーブルの上にカセットコンロと彩りよく具材を並べた鍋が用意されるのを見て稜而が言うと、遥が目を細める。 「うふーん。遥ちゃん、鍋大好きなのーん。冬は皆で鍋なのよー」 「そういえば、ウチでもよく作ってるよな」 「みんなでお鍋を食べるの、楽しいのん。譲り合ったり、奪い合ったり、数を数えたり、どうぞーってニコニコしながらお肉から目を離さなかったり、譲り合いすぎて一つだけ残っちゃったり、面白いのん。稜而と二人だと何でも半分こで終わっちゃうけど、四人もいたら超、争奪戦よー!」 嬉々としながら菜箸を手に鍋の世話をする遥に、稜而が苦笑する。 「四人兄弟じゃないんだから、いい大人が揃って争奪戦にはならないだろう」 「じゃあ、餅巾着は末っ子で未成年の遥ちゃんが総取りなのん。うひひーなのよー」 「ダメ。シイタケは全部遥が食ってもいいけど、餅巾着は俺も食う」 二人のやり取りに、理事長が笑顔で混ざる。 「私も餅巾着は譲れないな」 「私もお餅は食べるわ」 母親も笑いながら宣言して、遥は鍋の灰汁を取り除きながら嘆いた。 「あーん、誰も譲らないのよー。一番ちっちゃい遥ちゃんにも容赦なしなのよー! このおうちの可愛い弟ちゃんなのにー! もっとー、もっとー、はーるーかにー、もっとー、もっとー、やーさーしくー、もちきんちゃくほしーい、とりだんごもほしーい、しいたけきらいなひとはー、だーれーでーすーかー! 好き嫌いしないで食べなさーい!」 「ノーコメント」  稜而は自分のとんすいに入れられた椎茸を箸でつまみ、当たり前に遥のとんすいへ移動させた。  にぎやかに話して、食べて、店を出て、自宅へ向かう道の途中、理事長が雑居ビルの前で足を止めた。 「一杯飲んで行こうかな。パティさんも一緒にどう?」 「いいわね」  BARの看板を見て、遥は頬を膨らませた。 「あいあま、せぶんてぃーん、なのん……」 「はいはい、未成年は家に帰って飲み直そうな」 稜而にぽんぽんと頭を撫でられ、目を輝かせた。 「お酒っ?」 「ココア。好きだろ?」 「まあね、なのん……」 浮かない表情の遥の耳へ、稜而が囁いた。 「遥がココアを飲んだら、俺が遥のを一滴残らず飲んでやる」 「やーん、帰るぅ! 今すぐ帰るのよー!」 遥は理事長と母親に、にこやかに手を振った。 「ごきげんよう! また明日!」
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