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第51話-クリスマス編-

「♪ベーッドのうえ、ねがえりうーって、せなかが、つったのー、やっぱり、ふゆばは、けがしやすいのー♪ 稜而が整形外科医でよかったのよー」  クリスマスイブの朝、理事長と稜而はいつも通り出勤し、遥は日課にしている数学の問題集を解き終えてから、庭に出た。  歩み寄った花壇の前には、葉牡丹の手入れをする母親の姿があった。細い首や肉付きの薄い背中をしばらくの間、黙って見つめてから、声を掛けた。 『ねぇ、ママン。もしよかったら。もしママンが辛くなかったら。ちょっとだけ病院に行かない?』 母親は少しの間、しゃがんだまま葉牡丹を見つめていたが、立ち上がって振り返ったとき、口許には笑みが浮かんでいた。 『もう十年も経つのね』  二人は病院へ向かう坂道を、それぞれコートのポケットに手を入れて、肩を並べて歩いた。遥の肩の高さは、母親の肩の高さを超えていて、遥の目には母親の目尻に細かな皺が刻まれているのがよく見える。 『あっという間だった?』 『あっという間と言えるほど、簡単で短い時間ではなかったと思うわ』  細くて白っぽい金髪が頬に触れるのを、母親は指先でそっと自分の耳へ掛けた。 『手間のかかる息子だったし?』 『自慢の息子よ。愛してるわ』 母親は堂々とした笑顔を浮かべた。  救急出入口の角を右に曲がって、二重の自動ドアを抜け、正面玄関から外来棟へ入った。  淡いクリーム色を基調にした建物全体に、柔らかな太陽の光が満ち満ちていた。 『こんなに気持ちのいい空間を作り出すなんて、パパは天才だよね』 二人は人の流れの邪魔にならないよう、自動販売機の横の壁に並んで寄り掛かり、吹き抜けの向こうにある天窓を見上げた。設計段階で計算したのか、偶然の結果かわからないが、人々のざわめきも騒音ではなく、耳に優しい音になって跳ね返ってくる。 『パパはいつだって楽しいことを思いつく人だった。死の影に怯えるときですら、『この怖い気持ちを風船に吹き込んで、針で割ったら楽しいね』って。パパは呼吸が苦しいのに、二人でたくさん風船を膨らませて、たくさん割ったわ。ラフィも割ったのよ』 『風船を割ったのは、何となく覚えてる。段ボールに画びょうを刺して、ほんの少しだけ針先を出した特別なアイテムをパパが作ってくれたんだ。パパが作った不思議なおもちゃがいっぱいあった』 遥は天窓を見上げたまま、思い出して苦笑した。 『そうね。今でも箱いっぱいに残ってるわよ。今度出してみましょう』  母親も一緒に天窓を見上げたまま笑い、その横顔を見て遥は不意に問うた。 『彼氏いないの?』 『……何て答えようか迷うわ』 小じわのある目許に朱が差した。 『わーお。正直に言っちゃっていいよ。あなたの息子は、自分のママンがモテることを誇りに思うくらいの大人になったから』 『本当? まだティーンエイジャーじゃないの。生意気』 『失礼だなぁ。恋愛はバラの花が開くように素晴らしいことだって思うくらいには、大人になったよ』 遥は履いているムートンブーツのつま先を見ながら笑った。 『ラフィこそ、日本に来てガールフレンドができたの?』 『どうかな? 息子の恋愛にはノータッチでいるのがいいと思うよ。パートナーとはよく話し合うし、ちゃんとコンドームも使うから心配しないで。時期が来たら紹介する。そのときは、ぜひオレとオレのパートナーの頬に、笑顔でキスして』 『約束するわ』 『オレ、パパに言われてるんだ。『ママンが結婚するって言ったときは、ママンのほっぺにキスするんだよ』って。この間、車にはねられたときに思い出した』 『飛び跳ねて歩く子だから、いつか事故に遭うんじゃないかって、小さい頃は冷や冷やしてたけど、まさかこの年齢になってから予感が的中するなんて。連絡を受けたときは日本に行かせるんじゃなかったって後悔したわよ』 『連れ戻されなくてよかった』 『主治医が渡辺先生の息子さんで、よく診てくれてるって。そう聞かなかったら、連れ戻してたわよ』 『ひゅー。稜而が名医の卵でよかったよ』 遥の口笛に、母親は苦笑いした。 『私はもう、家族を亡くすのは嫌』 『了解。何が何でも長生きする。……再婚するなら、長生きしそうな人にするといいよ』 『そうね』 『プロポーズされてるの?』 『ううん。まだそんな関係じゃないのよ』 『これからそんな関係になる予定なんだね』 『からかわないで。神様にしかわからないことよ』  二人は顔を見合わせて笑みを交わし、そのまま壁から離れて、ゆっくり天窓の下を歩いた。  整形外科外来の前を通りかかったとき、PHSを耳にあてながら、青色のスクラブに真っ白なドクターコートを羽織った稜而が廊下へ出てきた。 「あ……」 稜而は遥の姿を見ると目を細め、ただ遥の頭をぽんっと撫でて、足早にすれ違って行った。 『忙しそうね』 『そうだね』  遥のマシュマロのような笑顔を見て、母親も目を細める。 『遥は稜而さんのことが好きなのね』 『え……っ』 『まるで、お兄さんみたいだものね。遥のことを弟みたいに可愛がってくれてる』 『あ……、そ、そうそう。稜而はまるでお兄さんみたい。大好き、……だよ。うん』 遥は自分の頬を両手で引っ張り、挟み、むにむにと捏ねて、表情を整えた。

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