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第59話
礼拝堂へ足を踏み入れた遥は、祭壇近くのたくさんのロウソクが灯る一角へ行った。そこでダッフルコートのポケットから小銭を取り出して箱の中へ入れると、ロウソクを一本手に取る。
「…………稜而」
マス目状に並ぶ燭台の一つにロウソクを立て、マッチで火をつけ、手を合わせて瞑目した。
さらに最前列の席へ移動すると、低い台の上に両膝をつき、胸の高さの台の上へ両肘をついて、両手を組むとその手に額をつけて、遥は目を閉じた。
「ねえ、神様。なんで? なんで稜而を……。なんで稜而をオレのお兄さんにするの? 嫌だよ。どうしてこんな環境をお与えになるの……。オレには神様の考えてることも、やりたいことも、全然わかんないよ」
礼拝堂の中には、パイプオルガンの音が響き始めた。誰かが練習を始めたからで、その演奏は途中で止まったり、同じ部分だけが繰り返されたりした。
「ママンが再婚するのはいいと思う。パパだって夢の中で笑ってた。渡辺先生はいい人だしね。……でもさ。稜而をお兄さんにするなんて、あんまりじゃない?」
遥の頬を涙が伝った。
「彼は大人で、自分が動揺するより先にオレを心配して、守ろう、庇おうとしてくれる。素晴らしい人だよ。その人と一緒にいられるのは嬉しい。でも……」
小さく洟を啜って、涙を飲みながら、遥は口の中で神様へ話し続けた。
「オレは彼を縛りつけたくないよ。恋人同士はいつだって別れられるし、夫婦だって離婚できるけど、……兄弟は、自分たちでは辞められないんだよ?」
指先で頬を伝う涙を拭い、改めて手を組んで瞑目した。
「いつか稜而がオレを嫌いになって、顔も見たくない、名前も聞きたくない、縁を切りたいって思っても、できないんだよ? どうすんの?」
遥は指先が白っぽくなるほど強く手を組み直す。
「オレ、稜而が別の人を好きになる姿なんか見たくないし、親からそんな近況を聞かされるのも嫌だよ。そんなときでも、オレは他人になれないんだよ」
唇を震わせながら、強く組んだ手に、額を強く、強く、押し付けた。
「神様が酷いのはさ、なんでこのことをオレに気づかせたのかってことだよ……。初夢でパパに会わせてくれたのは感謝してるけど。それだけでよかったんじゃねぇの? 神様ぁ……」
神様へ何度も訴え、罵ったりもしたが、遥の耳には何も聞こえず、目にも見えなくて、諦めて立ち上がった。
讃美歌の伴奏を練習するパイプオルガンの音もいつしか止んでいて、遥は聖水盤の中の水に再び指先を浸し、十字を切って一礼して、巻き直したロングマフラーに顔をうずめ、ダッフルコートのポケットに両手を突っ込んで、礼拝堂をあとにした。
「好きな人と兄弟になるなんて、レアケースすぎて相談相手も見つからねぇや、べらんめぇ、ちくしょうめ……なのん……。はあっ」
建志もロンロンも冬休みの間は台湾だし……、ともう一度溜息を吐いて、遥は結局駅ビルの地下にあるスーパーマーケットへ足を踏み入れた。
「こういうときは、今日の晩ご飯は何にしようかしらってするのがいいと思うのよー」
正月らしい雅なBGMが流れる中、買い物かごを提げて売り場を歩いたが、どの食材を見ても作りたいと思わず、食欲も湧かず、総菜売り場のコロッケを見て、ただ悲しい気持ちになった。
「コロッケを見て涙が出そうになるなんて、遥ちゃんだけだと思うのよ……。はあっ」
スーパーマーケットの中を何周も歩いたが、結局空っぽのまま買い物かごを返してスーパーを出て、また寒空の下をとぼとぼ歩いた。
「かと言って、家に帰ろうって気にもならねぇしな、なのん」
コーヒーショップでテイクアウトしたコーヒーと大きなチョコチップクッキーを手に、跨線橋の上に立って電車が行き交う様子を眺め、公園のベンチに座ってぼんやりし、たまたま通りかかった美術館に入って、コンテンポラリーアートを前にぼんやり過ごした。
ポケットの中の携帯が振動して、遥はようやく我に返った。
『どこにいる?』
稜而からのメッセージに時計を見ると午後六時を過ぎていて、遥は慌てて立ち上がった。
「やっばいのん! 晩ご飯のお仕度、何にもしてないのよー!」
遥は美術館を飛び出して、慌てて稜而へ電話を掛ける。
「ごめんなさいなのん。美術館でぼんやりしちゃってたのよん。お夕飯、何も用意できてないのよー!」
「そんなに焦った声を出さなくても。一緒にどこかへ食べに行こう」
「あーん、ごめんなさいなのよー」
「何を謝っているんだか。で、俺のデートの誘いには乗ってくれるのか?」
「も、……もちろんよ。デートしましょうなのん」
「すぐに行くから、ちゃんと暖かいところにいろよ」
「はい、なのん」
通話を切って、遥は溜息を吐いた。
「稜而、いい人すぎるのよー。優しい遥のお兄ちゃんなのん……。はあっ、お兄ちゃん……か……」
見上げた空はいつの間にか紺碧色になっていた。
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