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第60話

 稜而は美術館のロビーまで、十五分ほどでやって来た。遥の姿を見つけると素直に笑顔になって、ベンチに座っている遥の前まで軽やかに駆けて来る。 「お待たせ」 稜而は遥の手を取り、ベンチから立たせた。 「さあ、何を食べようか。何を食べたい?」  稜而は満面の笑みを浮かべ、遥の手を引いて歩く。 「うーん……」 「明日は仕事が休みだからニンニクやニラがたっぷり入った餃子とラーメン、焼き肉。あるいはがっつり中華、遥のもうひとつの故郷の味でフレンチ、気軽にイタリアン、日本の味で寿司、天ぷら」 遥とつないだ手を揺らして歩き、美術館の外へ出ると自分が着ているコートのポケットへ繋いでいる手を入れた。 「待って……」  遥はポケットの中で稜而と手をつないだまま、その場へしゃがみ込んだ。 「遥っ? 具合が悪いのか?」 遥は頭を左右に振った。 「お……、お腹が空いたのん……。コーヒー一杯とチョコチップクッキー一枚しか食べてないのよー」  稜而は前髪を吹き上げた。 「問答無用、すぐに料理が出てくる中華料理店へ行こう」  都道沿いの中華料理店まで、人通りのほとんどない正月二日の夜の歩道を、稜而は遥の手を引いてどんどん歩いた。そして活気のない店内で、普段の二人には少し多いと思う量の料理を注文した。  すぐに料理が出てくると言った通り、まるで注文される料理がわかっていて、二人が到着する前から作り始めていたのではないかと思う速さで料理が出てきて、二人は赤いテーブルに並んだ皿に向かって手を合わせた。 「いただきます」 「いただきますなのん」  遥はずらりと並ぶ料理を前に、さっそく杏仁豆腐へ手を伸ばす。 「相変わらず食いたいものから食う主義だな」 クラゲの冷製に箸を伸ばしながら、稜而は片頬を上げた。 「あーん、頭には糖分が大事なのん。しみるわーん」  遥は顎を上げ、口の中へ次から次へと杏仁豆腐を流し込んだ。 「そんな空腹になるまで、何をしてたんだ?」 「悲しい気持ちになってたのよー……」 「パパのことを思い出した?」 「パパのことも思い出したけど……。キャベツがお兄さんになるのは嫌だなってことに気づいちゃったのん」 「え? 俺? 俺と兄弟になるのが嫌なのか?」 「うん。だって窮屈じゃない? 恋人同士や夫婦は別れられるけど、兄弟は別れられないのよー」 稜而は食事する手を止め、ウーロン茶を一口飲んだ。 「ええと、遥。勘違いだったらそう言ってもらいたいんだけど、それは俺と別れたいということ?」  稜而が差し出した杏仁豆腐まで食べていた遥は、手を止めて稜而を見た。 「へ? 違うのん。別れたいのは稜而なのよ。稜而が別れたくても、遥ちゃんが弟だったら別れられないのん。もちろん稜而が好きになった人とすっうぃーーーとな関係になるのはいいけど、それを弟の遥ちゃんは、どうしたって知ることになるじゃない? それはやだなって思うのん」 稜而はもう一口、ウーロン茶を飲んだ。 「ごめん、話の意図するところがわからないんだけど? もう少し詳しく、遥の思考回路を説明してもらえないか。……ええと、糖分補給……。すみません、彼に、ごま団子とマンゴープリンを」 「エッグタルトもくださいですのーん! ……ええとね。今朝、遥ちゃんはパパの夢を見て目が覚めました。夢の中のパパは笑ってて、ママンの再婚を祝福してるってすぐに分かる夢だったから、それはめでたしなのん。でも、同時に遥ちゃんは気づいちゃったの。夫婦は自分たちの意思で結婚も離婚もできるけど、兄弟って自分たちの意思とは関係ないのん。兄弟になりたくてもなれないし、反対に兄弟をやめたくてもやめられないのん」 早口で説明しながら、運ばれてきたごま団子をぱくぱく食べた。 「なるほど。夫婦と違って、兄弟は自由意思に基づかない、受動的な関係性だと遥が気づいたという解釈でいい? で、『別れる』という言葉の真意は?」 稜而は自分の前に置かれたマンゴープリンを遥に向かって差し出し、遥はさっそくスプーンですくって一口食べてから、口を開いた。 「今は遥ちゃんと稜而はラブラブなのん。でも、永遠じゃないかも知れないでしょ? お別れしようって稜而が思ったときに、稜而と遥ちゃんは、ほかのカップルみたいに、きれいさっぱりお別れすることはできないのん。たとえば両親に何かあったとき、どれだけ離れて暮らしてても、稜而と遥ちゃんは顔を合わせなきゃいけないと思うのよ」 「なるほど。……で、なぜ俺が遥と別れるんだ?」 「疲れちゃうと思うのん。稜而はいい人すぎて、遥ちゃんみたいな問題児に優しくすることに、限界を感じる日が来ると思うのよ。そのときに縛りつけたくないのん。稜而に、兄弟だから仕方ないって、諦めて、遥ちゃんと、一緒に、いて欲しく、ない、のよぉ……ううっ……ひっく……」 遥は口の中に咀嚼途中のマンゴープリンを入れたまま泣き出した。口角がぐっと下がり、液状化したマンゴープリンが混ざったよだれが口の端から流れ出てくる。 「ちょ、ちょっと待て。泣くか食べるか、どちらかにしろ」 「う、うえ、うええええ」 「泣くのか? 泣くなら飲み込め、とりあえず口の中のものは飲み込め。ああ、ああ、まったく」 稜而はおしぼりで遥の黄色いよだれを拭き取った。 「りょおじいぃぃぃぃぃ。なんでっ、なんでそんなにオレの世話を焼くのぉぉぉぉぉ」 「この状態を放っておけるか、バカ!」 「うわーん、遥ちゃんバカなのー!」 「ああ、もう。めんどくさい奴だな」 「やっぱり! やっぱりなのよー! 遥ちゃん、捨てられるのー! うわーん!」 「ちょ、ちょっと待て。ええと。あー、口! 口の中のものは飲み込め! こら、追加で食べるな! ヤケ食いするなってば! ……すみません、新しいおしぼりください!」 泣きながら手当り次第に大皿を引き寄せ、右手に持った箸と左手に持ったレンゲで食べ物を掻き込み、さらに大口を開けて泣く遥の口元を、稜而はおしぼりで拭い続けた。

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