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第75話

「さて。カフェの次はメトロかな」 稜而は遥の腰に手を回した。 「うふふっ、らぶらぶなのん」  遥は稜而の腰に両腕を回して一緒に歩き、メトロのプラットフォームで、二人は壁に寄り掛かってキスをする。  稜而は遥の頭を自分の肩に押し付けさせて後頭部を撫で、前髪に唇を触れさせつつ、質問した。 「どうしてメトロのプラットフォームなんだ?」 「駅はお別れする場所なのん。寂しくて、恋人たちは気分が盛り上がっちゃうのよ。電車が来ても離れがたくて、ちゅうちゅうして電車に乗り損ねる人もいるのん。稜而と遥ちゃんは一緒に住んでるけど、情熱的な気分になってみたいのん」 「確かに一緒に過ごしたあとは、離れがたいよな」 「稜而は、誰かとそういう気持ちになったことあるのん?」 「秘密」 目を弓形に細めてみせると、遥は唇を尖らせて、でも背筋を伸ばし、顔を上げて言った。 「稜而は二十六歳だもん、相応の過去があるってことくらい、遥ちゃんはわかってるわ!」 稜而は遥の耳にキスをしながら話した。 「どうかな。初恋と呼べるものはあったと思うけど、幼なすぎて進展はなかったし。ぼんやりした付き合い方をした人は何人かいたような気がするけど、そんなに情熱は持てなかった。はっきり言えるのは……、こんなにも強く『愛している』と思うのは遥だけ」  稜而が遥の顔を覗き込むと、遥は稜而の唇にキスをした。 「愛してるのん。ジュテームよ!」 「遥の初恋は?」 ミルクをねだる仔猫のように遥の頬やこめかみにキスをしながら、稜而は訊いた。遥は肩を竦め、小さく首を振って笑う。 「あーん、秘密よ! 稜而が初恋の相手だなんて、ヤキモチ妬いてもらう過去がなくてつまらないもの! だから内緒! 秘密なのん!」 稜而は遥を抱き締めた。 「愛してる、Mon chenille(モン シュニーユ).(俺の芋虫)」 「あーん、キャベツぅ! 愛してるのーん!」 稜而は遥の顎を指先で捕らえると、強く唇を押しつけた。  生温い風が吹いて、電車がホームへ滑り込んで来たが、遥が声を上げても、稜而は遥の口の中へ自分の舌を差し込み、口内を蹂躙し続けた。 「ぷはっ! 乗り損ねちゃったのよー……」 「乗り損ねるほど、ちゅうちゅうしたかったんじゃなかった?」 「そうだけどぉ……」 「もう少し、このままでいさせて」 稜而は切なげな声を出し、遥をきつく抱き締めた。 「あーん、稜而ぃ……」 遥もつられて切なげな声を出したとき、稜而は正直に告白した。 「今の状態じゃ、一歩も歩けない」 「やーん! オトコの事情なのよー!」  遥は明るく笑い、稜而は全身に力を込めて遥を抱き締めては、熱っぽい息を吐くのを繰り返して緊張を緩め、ようやく顔を上げて、遥と手を繋いだ。 「公共の場でいちゃついて、フランス人男性は困らないのか?」 「ひょっとしたら、困ってるのかもかもよー。だからよく脚を組んで座ってるのかも知れないわー」 「なるほど」 横並びのシートに並んで座って、稜而はこれ見よがしに脚を組み、遥は手を叩いて笑った。  紺地に白い文字で、壁一面に愛の言葉が書かれたジュテームの壁は、何組ものカップルがいた。  二人もさまざまな言語で書かれた愛の言葉を背に、頬を寄せ合って写真を撮り、さらに稜而は遥の頬にキスをしながら、目線だけレンズに向けてシャッターボタンを押した。 「あーん、いちゃいちゃしてるのーん!」  夏至が近く、夕暮れにはならなかったが、セーヌ川の河岸で稜而の足の間に遥が座り、午後のはちみつ色の光に輝く川面を見た。 「デートって楽しい」 稜而が遥の肩に顎を乗せ、ぽつんと呟いた。 「遥ちゃんも楽しいわ! 稜而がいちゃいちゃしてくれて、嬉しいのん!」 脚の間ではしゃぐ遥をきゅうっと抱き締める。 「いちゃいちゃするのが楽しい。好きなものを好きと言えるのは、楽しいな」 身体の前で交差する稜而の腕に、遥は手を重ねた。 「いつでもいちゃいちゃしましょう、なのん。たくさん好き好き愛してるって言って。遥ちゃんも、たくさん表現するわ。お歌も歌うし、ご飯も作るし、キスも、セックスもするのん」 「ああ」 稜而は遥を抱き締め、肩に顎を乗せたまま、言葉少なにきらめく川面を見つめ続けた。  RERに乗ってムランに戻り、待ち合わせのカフェでコーヒーを飲む間も、稜而は遥を腕の中に抱いたまま静かだった。 「センチメンタルになっちゃったの?」 「そうだな。いろいろ考え過ぎたかも知れない」  ミントシロップの水割りを飲んでいた遥が、ストローから口を離して、稜而に言葉を掛けようとした瞬間、無理に甲高くした野太い声が飛んで来た。 「あーん、ラフィ! 稜而! お待たせだったのよー! レオちゃん、日本人みたいに真面目だから、残業しちゃったのーん! カローシしちゃったらどーしよー!」 ボーダー柄のTシャツをぴたりと身体に張りつかせ、脇を締めて肩の高さで小さく手を振りながら、レオが二人に向かって走って来た。

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