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第84話

 遥は自分の膝の両脇にあるベンチのふちを掴むと、前を向いて明るい声で話し始めた。 「遥ちゃんは、お子様の頃からユニークで、楽しいことが大好きだったのん。  せっかく晴れてるのに教室の中で授業を受けるなんて嫌だったし、風で揺れるカーテンが日射しを受けてきらめくのを見たかったし、くじらぐもを探してジャングルジムのてっぺんにいたかったのよ。  雨の日は上を向いて雲が雨になる瞬間を見たかったし、水たまりに触りたかったのん。水たまりに雨が降ると、水の中に水が落ちるのに、どうしてすぐには馴染まないで、石を投げ込んだときと同じように波紋ができるのか不思議だなって考えて、水道の水で試してみたりもしたかったのよー。  でも、せっかくの晴れた日も、雨雲の向こうに太陽が透ける美しい雨の日も、風神雷神大活躍なあらしの日も、小学校では薄暗くて四角い教室の中にいなくちゃいけなかったわ。ジャングルジムのてっぺんから空を見たり、鉄棒の下の水たまりを見たり、一人だけが主事室から借りたバケツに水を汲んだりするのはダメなことだったのん。  遥ちゃんは小さかったから、いきなり手首を掴んで『ダメ』って言われてもわからなくて、理由を訊いたの。その結果、『皆と違うことをしてはいけません』『学校は社会の縮図です、集団生活を身につける場です』って言われて、ますます混迷を極めたのよ。  だって、小学一年生から六年生までと、数十名の小学校教員と職員しかいない塀の中が、社会の縮図な訳ないじゃない? 当時の遥ちゃんはまだ小学一年生で若くて青かったから、『社会のミニチュアっていうには、人が足りません。中学生も建築士も、お坊さんも、おじいさんもおばあさんも、社長さんも、白い杖を使う人も、手でお話しする人も、研究者も、ホームレスの人も、お医者さんもいません。体調が悪い人も欠席するからいません』って生真面目に答えちゃったのん。  今の遥ちゃんは、あいあませぶんてぃーんだから、これがアウトな対処法だってわかるわ。  正論を振りかざして追い詰めちゃいけない、正しいことほど気をつけて伝えなくちゃいけないって、お坊さんとお坊さんの奥さんに教えてもらったのん」 遥は肩を竦めてコーラを飲んだ。 「お坊さん?」  遥は一転、バラ色の頬を輝かせて頷いた。 「小学校に行く途中、最後に曲がる角のところにお寺があったのん。そのお寺のお坊さんと、お坊さんの奥さんよ!  遥ちゃんは、小学校っていう社会の縮図にとことん馴染めなくて、忘れ物もいっぱいで、計算ドリルの繰り返しも不毛に思えて嫌いで、ハンカチとティッシュも持ってなくて、爪は衛生検査の直前に噛んで食べることでしのいでたから、毎日小学校へ怒られに行くだけの毎日だったの。  怒られたかったわけじゃないのよ。遥ちゃんだって、いい子だねって言われたかったんだけど、小学校のいい子の基準をどうしてもクリアできなかったの。先生に頭を撫でてもらう子が羨ましかったわ。遥ちゃんも可愛くカールしたご自慢の、よく目立つ金髪を撫でてほしかったわ……。  とにかく、遥ちゃんは愛すべきおバカちゃんだったから、語り尽くせないほど、毎日いろんな騒動があって。毎日いっぱい怒られたのよ。  そして、ある朝とうとう、そのお寺の前で遥ちゃんの足が動かなくなったのん。ニノミヤソントクさんみたいに、ランドセルを背負ったまま動けなくなっちゃったのん。学校に行きたくない訳じゃなかったの。嘘のお芝居じゃなかったの。遥ちゃんは毎日休まずに学校行かなきゃいけないって思っていたのに、足が動かなかったの、本当よ。  とうとう自分の足まで自分の言うことを聞かなくなっちゃって、どうしてこんなに遥ちゃんは悪い子なの? って情けなくて泣いちゃって、さらには寒い日だったから身体がぷるぷるって震えておもらしもしちゃって、絶望的な状況になったわ」  稜而はコーラをひとくち口に含むと小さく左右に頭を振った。 「辛すぎる状況だ……」 「遥ちゃんは、その頃にはもう遠巻きにされてて、心から仲良くしてくれるオトモダチはいなかったのん。遥ちゃんが考えた面白い遊びを一緒にすると、必ず先生に怒られたから、関わりたくなかったんだと思うわ。  同じ通学路を歩く、同じ制帽をかぶった子たちは、ションベンと涙と鼻水と涎をたらした金髪の美少年を、見ないふりして追い抜いて行ったのん。遥ちゃんは、どうしたらいいかわからないまま。塀の外で一人きりで八時二十五分のチャイムを聴いたときは、本当にショックだったわ」 稜而は遥の肩を抱き、頬に唇を押しつけた。 「でも、お寺の前だったから、お坊さんと、お坊さんの奥さんが出てきて、全部全部助けてくれたのん。  お坊さんとお坊さんの奥さんが、遥ちゃんと遥ちゃんの服をまとめて庫裏(くり)のお風呂で洗ってくれて、道路も水で洗ってくれたのん。  遥ちゃんは、お坊さんのシャツをワンピースみたいに着て、仏様にお供えしたあとのお菓子を頂きながら、暖かい場所で家からの救助を待つことができたのよ」 「それはよかった」 「その日はそれで学校を休みますってなったけど、小学校へ向かう最後の角で足が動かなくなるのは変わらなかったの。次の日からはやっぱり困っちゃったのよ。  最初はママンやばあばが一緒なら歩けたり、じいじが車で送ってくれたら大丈夫だった日もあったんだけど、だんだんそれも辛くなってきて、毎日お寺の前でパントマイマーだったのん。遥ちゃんがパントマイマーになる時間に合わせて、お坊さんとお坊さんの奥さんも通学路を見て、声を掛けてくれるようになってて、そのあと学校から先生が迎えに来たり、家からママンが迎えに来たり、いろいろしたわ。  ある日、お坊さんに『このお寺には歩いて来れる?』って訊かれて、すたすた歩いて行ったら、『僕と奥さんでフリースクールをやるから、通っておいで』って。じいじとばあばとママンとお坊さんとお坊さんの奥さんが、小学校と相談してくれて、遥ちゃんがお寺のフリースクールの、栄誉ある一番最初の生徒になったのん」 「立派なご夫婦だな」 「そうなのん。遥ちゃんは、今でも毎月近況報告のお手紙を書いてるのん。稜而のこともお知らせしてあるわよー。お返事には、最近はお寺よりもフリースクールのほうが忙しいくらいだって書いてあるわ。お寺のご近所のおじいさんやおばあさんたちも、フリースクールを手伝って、毎日お元気なのん」 「大反響だな。それが歓迎すべきことかどうかは、俺にはわからないけど」 「反響と言えば、お寺って広くて、音が反響するのん。それで、ご近所のおじいさんおばあさんたちが、週に一度か二度集まって、カラオケサークルしてたのよ。お寺でお通夜やお葬式をする日はお休みっていうルールで、場所代はお寺のお手伝いなの」 「なるほど。ベテランの手を借りることができるのは、お寺にとってもメリットになりそうだな」 「でしょでしょ? カラオケの日は、フリースクールでのお勉強よりそっちが気になるから、遥ちゃんも音楽のお勉強ってことで、一緒にカラオケするのん。黒飴やおミカンを頂きながら、いっぱい手拍子して、いっぱい歌ったわ」 「ひょっとして、お前のお歌のレパートリーが古いのは、そのせい?」 「おーいえー! ピンポンなのーん! 小学校へ行かずに、おじいさんやおばあさんとカラオケを歌ってたから、レパートリーが古いのん。でもこれは遥ちゃんの誇りよ! 皆にいっぱい可愛がってもらった時間があったから、遥ちゃんは、今の遥ちゃんなの! 元気いっぱいお歌を歌って、自分をいい子って思えるのよ!」 「遥を助けてくれた人に、俺も一緒に感謝したいな」 「今度一緒にお寺に行きましょうなのーん!」 おーいえー! と笑ってコーラを飲むと、ベンチに座り直して深呼吸した。 「そして。ここからは、フランスのおじいちゃんとカウンセラーにしか話したことがない、サイドストーリーよ」 ちょっとばかし、暗いのん。遥はそう言ってから、話し始めた。

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