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第85話

「小学校に馴染めなかった遥ちゃんは、お寺のフリースクール一期生になって、おじいさんやおばあさんとカラオケを歌って、めでたしめでたし。  その後、ママンの英断によりフランスへ行き、ぴょんぴょんって飛び級して、あっという間に医学生になりました。  アルバイト先の大地さんとガブリエルとクレモンの姿に憧れ、キャベツを探し求めて来日、その日のうちにキャベツと出会い、今は日本の医学部にチャレンジするため、予備校生ですって訳なんだけどー……」 遥はようやく星が瞬き始めた夜空を見上げ、自分をあやすように前後に身体を揺らした。 「無理はしなくていいぞ」 「うん。でも……。これが最後のチャンスだと思うから。この先、いろんな手続きが進んで、フランス国籍を放棄して、大学辞めて、お父さんとの養子縁組が成立しちゃってから話すのは、フェアじゃないような気がするから。  今ならまだ、全部ごめんなさいって言って、オレはやっぱりフランスに残りますって言えなくもない。フランスで生きていく基盤を手放してから、稜而に嫌われても、行き場がないから」 「お前、そんなことを考えていたのか」 気色ばむ稜而の前で、遥は笑う。 「あーん、怒っちゃいやなのーん! 遥ちゃんも、マリッジブルーなのよー! 苗字も変わるし、国籍も日本を選ぶし、大学辞めて受験生やりなおしだし、不安いっぱいで気持ちが不安定なのーん」 顎の下で両手を握りこぶしにして、ミルクティ色の髪を振った。  稜而は大きく息を吸いこみ、盛大に前髪を吹き上げて、ベンチの背もたれに寄り掛かり、コーラの瓶を口につけた。 「わかってくれて、ありがとうなのーん。……遥ちゃんは小学校の面談室で、若い男の先生にズボンを下ろされて、おちんちんを舐められたわ」  稜而は口に含んだばかりのコーラを足元の芝生に向かって噴き出し、遥は笑いながら稜而の背中を撫でた。 「落ち着いてなのよー」 「だってお前、それは犯罪……」 「そうかもかもだけど、でももうその先生は死んじゃってるのん」 遥はコーラの飲み口から、黒くはじける水面をそっと覗き込んだ。 「あんまり全部話して、稜而に嫌われないか。本当に、それだけが心配よー」 「俺の愛を疑うのか?」 「そういう訳じゃないんだけどー……」  遥はゆっくり大きく深呼吸をすると、再び話し始めた。 「フリースクールへ行くようになってからも、月に一度くらい小学校へ呼ばれたのん。担任と面談して、近況報告をして、単元テストを受けたりしたのよ。それは面談室っていう大人用のテーブルと椅子が置いてある部屋で、授業中や放課後の学校の中が静かなときに、ほかの誰とも会わずに済む時間帯に設定されていたから、遥ちゃんもまぁ行ってあげてもいいわって思って、通ってたの。  ある日、遥ちゃんは、面談室で受けたテストが全部満点だったのん。それで、担任の先生に怒られたの。 『テストの点数がいいからって、学校へ来なくても許されると思ったら大間違いです!』って。  遥ちゃんはそんなふうには思ってなかったから、愕然としたわ。お勉強はフリースクールで、お坊さんとお坊さんの奥さんがつきっきりで教えてくれたし、家でもじいじとばあばとママンが世話をしてくれたわ。遥ちゃんも皆に遅れないようにって、頑張ったの。でも、担任の先生はそう言って怒ったの。  いくら自分の考えを話しても、聞く耳を持ってもらえなかったのん。何を言っても火に油を注ぐばかりで、たくさんたくさん叱られて、でも担任の前ではくやしいから泣きたくなくて、――なぜか、泣いたら担任が喜びそうな気がしたから――校舎を出て、花壇の陰で泣いたの。  そのとき、隣のクラスの担任が通りかかったのん。  隣のクラスの担任は、カッコイイお兄さんだったのん。ジャングルジムみたいに逞しくて、輝いていて、よく子どもたちがよじ登ってた。  そのジャングルジム先生が、『どうしたの?』って声を掛けてくれて、一緒に花壇のふちに座って、遥ちゃんの話を全部聞いてくれたのよ。 『テストで満点を取るのは、素晴らしいことだよ、自信を持って』って。『担任の先生に僕から話してみる』って。  そのときのジャングルジム先生は、太陽の光を受けてキラキラ輝いて見えたわ。  実際、担任の先生に話をしてくれたみたいで、勉強ができることは、たまに褒めてもらえるようになったの。そのかわり、問題を間違えたときに、ここぞとばかりに『いい気になってるから間違えるのよ』なーんて嫌味を言われるようになったけどー」  稜而は強く前髪を吹き上げた。 「その担任は、自分のプライドを守ることしか考えていないように思う。自分が教えていないのに勉強ができるなんて気に入らない、あるいは自分が教えている子よりも教えていない子の方が勉強ができるなんて気に入らない、そして教え子が学校に来ないから自分の教員としての能力に問題があると思われて気分が悪い、そんなふうに考えていそうだ」 「大人も完璧じゃないのん。先生には先生の理想があって、遥ちゃんがその理想に合致しなかっただけ。その先生のことは、最後まで喜ばせてあげることはできなかったわ。エンターティナー遥ちゃんとしては、ちょっと残念だけど、人生のうちにはそういう人と出会うこともあるのよー」 遥は歌うように言い、バラ色の頬を持ち上げて笑った。

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