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第87話

 ジャングルジム先生が死んじゃって、遥ちゃんはしみじみ寂しかったわ。  春休み中でフリースクールはお休みだし、カラオケサークルも敬老会のバスレクと重なってお休みで、遥ちゃんは、ずっとおうちのなかでゴロゴロしてた。  学校へ行かないって、胸を張れることじゃないのん。皆は頑張って学校へ行っているのに、自分だけ違うことをしてるって、自分だけさぼってごめんなさいって気持ちになったり、皆は学校に行けていいなって羨ましく思ったり、気持ちはいつも、すぐ近くに雨雲があるような感じ。  毎日学校へ通っている子と目が合うと、気持ちの雨雲がもっと近寄ってきて、心の中が暗く、重くなる。  だから学校がお休みの日は朝から晩まで家の周りを敵が歩き回ってて、遥ちゃんは家の中に籠城してるような過ごし方をしてたわ。  それでも夏休みや冬休みは、じいじのお仕事についていって、社長室のお掃除やお茶汲みをしたり、秘書室でホチキス止めを手伝ったり、駐車場で車の向きを変える板の操作を手伝ったりしていたんだけど。春休みはそういう気分にもならなかった。  たぶん、ママンがそういう現状をフランスのおじいちゃんに話したんだと思うわ。  『ラフィ、おじいちゃんの家に遊びにおいで』って言ってくれた。  ママンは当時、近所のお花屋さんで仕事をしていて、三月は送別会や卒業式で渡す花束を作ったり、結婚式のお花を飾るのに忙しかったの。  だから航空会社のサポートサービスを利用して、おこちゃま一人旅でフランスへ行ったわ。  気分が変わって、毎日元気いっぱい、飛び跳ねる予定だったのに、遥ちゃんってば、フランスのおじいちゃんの家についた途端に、急にマリオネットの糸が切れたみたいに動けなくなったの。身体がだるくなって、気持ちが重くなって、眠くて眠くて仕方がなくなって、トイレへ行く以外はずっと寝てた。ご飯もおばあちゃんがベッドまで運んできてくれたわ。  最初は旅の疲れ、時差ボケって思っていたけど、新学期だから日本へ帰りましょうっていう時期になっても起き上がれなくて、おじいちゃんが病院へ連れて行ってくれたのん。  そこで診察を受けて、遥ちゃんの口から出てきた言葉は『悲しい、疲れた』だった。  当然、日本で何があったのかを話さなくちゃいけなくて、小学校へ行っていないこと、フリースクールとカラオケサークルはとても楽しいこと、一年生の担任にいっぱい怒られたこと、ジャングルジム先生が素敵な先生で、可愛がってくれて、いっぱいキスしてくれたこと、ごめんなさいって死んじゃったことまで、全部話したわ。  遥ちゃんはそんなに大問題って思ってなかったけど、大人たちはジャングルジム先生が遥ちゃんの身体にキスをしたことをクローズアップして、ざわざわして。  その空気が本当に嫌だったの。性犯罪の被害に遭った可哀想な子ってレッテルで、わかってますよって無言で頷く大人の間を遥ちゃんはリレーされて全身に傷がないかをひとつひとつ調べられて、カウンセラーのところまで行ったわ。  『ママンには言わないで』って、おじいちゃんにお願いしたの。大好きなママンにまでこんなわかってるわみたいな目で見られたら、やっていけないと思って。  だからたぶん、ママンはあまり詳しいことは知らないはず。知っていて知らない顔をしてくれてるのかも知れないけど、とにかく遥ちゃんからは何も言ってない。診察やカウンセリングは常におじいちゃんが付き添って、送り迎えをしてくれたのん。  そうやってフランスで治療が始まってしまったから、遥ちゃんは簡単には日本へ帰れなくなって、おじいちゃんがママンに『フランスへ帰って来なさい』って言ったのん。  ママンは、もうフランスには一生帰らないつもりで日本にいたのん。パパが死んでしまって悲しいけど、四人で力を合わせて頑張っていきましょうねって、じいじとばあばとママンと遥ちゃんで暮らしていたからよ。    それを、『ラフィは勉強が進んでいるようだから、飛び級制度があるフランスで学ばせたほうがいい。同調を求められる日本の小学校より、個性を大切にするフランスの小学校の方が、ラフィの性格には合っているだろう』って、説得してくれたのん。  ママンにとって、フランスに帰るなんて一大決心。じいじとばあばも、パパの忘れ形見の遥ちゃんと離れるのはすごーく寂しいのに、『遥にとって一番いいことをしてあげよう』って、決断してくれたわ。  お坊さんとお坊さんの奥さんも、カラオケサークルのおじいちゃんおばあちゃんも、『遥ちゃんには、それがいいかも知れない。寂しいけど、日本に帰って来たら、いつでも遊びに来てね、元気でね』って言ってくれたわ。  それで遥ちゃんは、毎月お手紙を書くねって指切りをして、夏休みにフランスへ引っ越したのん。  幸い、カウンセラーとの相性もよかったのん。  相容れない部分はもちろんあったけど、自分の心をどう整理して、メンテナンスするか、そういうスキルを身に着けて、セルフヘルプできるようになるまで導いてくれた。  遥ちゃんのお絵描き帳も、そのときに身に着けたスキルの一つよ。  楽しいことだけじゃなく、嫌だな、苦しいなって思うことも、全部書くの。一番新しいページには、『稜而に話すのが怖いな』って書いてある。『不安23%、大好き100%、愛してる100%、後ろめたい55%』とかね。それから、『でも言いたい』、『好きな人には自分を全部知っていて欲しい』、『稜而は聞かされて、嫌だ、気持ち悪いって思わないかな?』、『話してみなければわからない』、『そのときはフランスに残って』、『日本へ行くなら、もう一度一緒に関係を築き直せるかも』、そんな言葉を書いたわ。  そんな感じで、遥ちゃんは……まぁ、もともとそんなに性犯罪被害については傷ついてなかったから、フランスの小学校に通いながら一年くらいセッションを受けて、すっかり元気になって、本当に今は何ともないのん。オレもいつかどこかで縁があれば、不登校の子供をサポートできたらいいなって思うくらい。  ただ、副作用で、おじいちゃんがゲイを大っ嫌いになっちゃったのが、ね。  ゲイだからって、全員が小さな男の子のおちんちんを舐めるわけじゃないんだけど、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い方式なのかなー ♪ぼうずにくいかーら、さあケサにくいよ。ゲイないきかたーを、かえられないかぎり、げんかいなんだわー、ゲイにイライラするわー♪」  遥は肩を落とし、力なく笑いながら首を傾げた。

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