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第91話

 羽根扇子を振り回す遥を残し、稜而とレオはタクシーの後部座席に並んで座り、それぞれに窓の外の流れる景色を見た。 「早漏」  レオの吐き捨てるような言葉に、稜而は片頬を上げる。 「何のこと?」 「スッキリした顔しやがって」 「顔を洗っただけだよ」 「ラフィを連れてお便所に籠もってたクセに」 「遥も顔を洗ってた」 「あら、噓つきは泥棒の始まりよ?」 「遥のハートは、しっかり盗ませてもらった」 「ムカつく」 こぶしを突き上げて見せるレオに、稜而も中指を立てて見せる。 「やぁね、下品よ」 「お互い様だ」  ののしり合いながらホテルの前でタクシーを降り、親切なドアマンに案内されて、大理石が敷き詰められた幅の広い廊下を経て、バーへ辿り着いた。  深く腰を落ち着けるソファ席ではなく、止まり木のようなカウンター席に並んで座り、ショートカクテルをオーダーする。 「うっわ、ジントニックなんて、ありきたり」 「ジントニックを外す店は、まずない。最初にマティーニなんて、通ぶってる」 「ここのマティーニは美味しいのよ」  宣言通りにフォアグラとトリュフのマカロニを食べ、もう一杯ずつショートカクテルを飲んでから、念願のウィスキーに辿り着いた。 「あたし、ジャパニーズウィスキーが好きよ。洗練されているのに、細心の注意を払った雑味があって。最初はラフィのもうひとつの故郷だから、関心を持ったの。日本語を覚えたのも遥のため。ホームシックになったとき、話し相手になってあげたくて」  グラスの台座を指先で撫でながら、レオは柔らかな声で話した。  稜而はその言葉の一つ一つに頷いて、話を聞いた。 「遥はきっと、レオにたくさん救われた。レオに食べさせたいと、日本のスナック菓子をスーツケースの片面全部に詰め込んだくらいだからな」 「可愛い子よ。日本から来てすぐの頃、ラフィはあまり体調がよくなくて、ずっと寝ていたの。ご飯もあまり食べなかったけど、お菓子なら食べたから、パンケーキを焼いてあげた。そのとき、『レオ、ありがとう。美味しい』って、青白い顔でちょっと笑ってね。ラフィの笑顔が見れるなんて、最高の仕事だと思って、パティシエになることにしたの」 「健気だな」 「健気でしょう? 今はラフィだけじゃなく、お店に来る人たちの笑顔全部が最高よ。そのためなら試作を繰り返すのも、ひたすらカスタードクリームを練るのも、毎日同じお菓子を作り続けるのも、早朝から仕込みをするのも、全部楽しいわ」 グラスを持ち上げる手には、新しいものも、古いものも、火傷の跡がいくつも見えた。 「大地さんの家で食べたタルトタタン、美味かった」 「ふふっ。『レオちゃんのタルトタタン、美味しいね』って言われて以来、一番得意なの」 「なるほど」 「あんたが知らないラフィの姿を見せてあげる」 取り出した携帯の画面には、今よりあどけない表情のレオと、隣で小さくピースサインをする遥の姿が写っていた。  遥は小さく痩せっぽちで、まだ短い巻き髪は好き勝手な方向に跳ねていて、表情の乏しい青白い顔に、手垢のついたメガネが乗っかっていた。 「ラフィが生き生きとし始めたのは、大地さんのところでクレモンのシッターを始めてから。急に顔色がよくなって、話し方もはきはきして、笑顔で『おーいえー!』って。元気になったと思ったら、日本語を猛勉強し始めて、『キャベツを探しに行ってくる!』って。あっという間にいなくなっちゃった」 「それはそれは」 「ラフィがゲイなの、知らなかったの。女の子と遊びに出掛けることもよくあったから、女の子に興味があるんだって思い込んでた。だから日本へ行って、男と二人で写した写真を送って来るなんて思わなかったわ。ラフィは『主治医のお医者さん』って書いていたけど、その主治医とほっぺたをくっつけて映っているんだもの、愕然としたわよ」 「けじめとして、最後の一線は退院してから越えたけど。とても楽しい夜だった」 「ムカつく。どうせラフィの入院中も鼻の下伸ばしまくっていたんでしょ」 稜而は首を左右に振った。 「一目惚れだったけど、まったくのぼせなかった。コイツの怪我を何とかしないとって、どんどん頭が冴えた。手術のときの冴え方なんて、上級医に驚かれたくらい。全部が見渡せていた。……食事の時間と消灯時間にベッドサイドへ行くのは、個人的な感情だったけど。隙あらば病棟への階段を駆け上がってた。今は効率よく、効果的に仕事に取り組むようになった。残業はなるべくしないで遥のところへ帰る。健気だろ?」 グラスに口をつけながらウィンクして見せると、頬をつままれた。 「その、ラフィとキスした口をよこしなさいよ! あんたのテクニックも確かめてやる!」 「ちょ、ざけんな……っ」 両頬を怪我だらけの手で挟まれて、強引に唇を重ねられた。  強引に入り込んで来るウィスキー味の舌に、仕方なく稜而は応戦し、そっと絡め、甘く噛んで捕まえると丹念に舌先でくすぐり、柔らかくしゃぶって、仕上げにきつく吸い上げた。 「んっ」 レオが声を上げたところで口を離し、それぞれ不機嫌そうにウィスキーを飲む。 「今までの人生で、一番楽しくないキスだ」 稜而は苦笑してウィスキーを口に含んだ。 「ムカつく」 レオはシャツの袖で自分の口をぐいぐい拭ってから、チェイサーの水をがぶりと飲んだ。 「のろけたいんじゃないの? 聞いてあげるわよ」 「ん? 遥のベッドの上の姿は俺の胸の中だけで。……でも『好き好きーってするのよ!』なんて飛びつかれたら、そのままベッドまで運ぶよな。勉強するときの眼鏡姿も可愛いし、百年の恋もいっぺんに醒めそうなあくびも可愛い。髪の毛長いの面倒くさいなって言うから、髪の毛は俺が洗って乾かしてやる。自分の人生を自分の足で歩もうとする姿は、カッコイイ、惚れ惚れする。初めて出会った瞬間に、目が合う前に『コイツだ』と思った。少し照れたけど、脚の状態を見たら一気に頭が冴えたよ。遥も『うっ』と胸を押さえていて、俺も同じ気持ちだと思った。遥は長袖の服は持ってこなかったと言って、ずっと俺の服を着てる。ダッフルコートも俺が高校時代に着ていたやつで、新しいのを買ってやるって言っても、『稜而の匂いがするのがいい』って。たまらなく可愛いだろ? 真顔で見つめると照れるんだ。可愛くてますます照れさせたくなる。可愛いだけじゃない。好奇心旺盛で、人生を楽しもうっていう姿勢には感銘を受ける。でもやっぱり可愛いかな。俺は遥を妻だとは思っていないし、そういう役割は求めていないけど、遥が『稜而の妻です』って言っているのを見ると、可愛くてそのまま見ていたくなる。コロッケが好きだと言ったら、たくさん作ってくれるんだ。俺が衣がしんなりするのが嫌で、何もつけずにザクザク食べるって知ってからは、下味を濃くしてくれるようになって、本当に美味い。遥のコロッケだけ食べて生きていきたいくらいだ。甘いものが好きで、ココアを作ってあげるのは俺の役目。『マシュマロ浮かべて飲んでいい?』って、上唇に溶けたマシュマロがつくから、それは俺が食べる。それから……」  延々と話し続ける稜而の横顔を見て、レオは笑いながら溜め息をつき、バーテンダーに声を掛けた。 「ヤマザキ二十五年。ダブルで」

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