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第93話-温泉旅行編-
「♪あるひー、はるかとりょうじはー、かたりーあったさー! これからいくおーんせんがー、とてもたのしみなことをー! グリーングリーン、こうそくどうろ、ぶたさんにげーてー! グリーングリーン、つうこうどめ、まだまだつづーくー!♪」
稜而のスポーツカーの運転席には遥がいて、ボンネットと後ろのナンバープレート脇には若葉マークが貼りつけられている。
「あの豚さん、お昼寝してるのよー」
ハンドルを抱えた遥が、陽当たりのいい中央分離帯を指さす。そこにはぱたりと横に倒れて、もぐもぐと鼻を動かしながら目を閉じている豚がいた。口角が上がって、笑っているように見える。
「将来を悲観するより、束の間の昼寝。死は平等に訪れるんだしな……。見事な諦観だ」
助手席の稜而はスポーツグラスを頭の上に押し上げ、ヘッドレストの後ろで手を組んで、のどかな遁走劇を眺めた。
「警察官は、路上の酔っぱらいも昼寝している豚さんも、対応は変わらないんだな」
白バイで駆けつけて来た警察官は、路上で寝ている豚の肩を叩き、トラックを指差しながら話し掛ける。寝ていた豚も素直に立ち上がり、頭を振るってあくびをして、追い立てられるまま、素直にトラックの荷台へ乗り込んでいった。
元気よく走り回っていた最後の一頭が乗り込んで、荷台のドアが閉まると文字が見えた。
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新しいブランド豚『貴腐豚―KIFUTON―』
貴腐ブドウを食べて育った美味しい豚です
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「『貴腐豚』? どこかで聞いたような……」
稜而が首をかしげている間に、警察官による誘導が始まった。
「あーん、貴腐豚ちゃんっておっしゃるのねー! 覚えておくわー! 今度はどこかのテーブルの上でお会いしましょうなのよー!」
トラックに向かって手を振ると、遥は誘導に従ってサイドブレーキを解除し、丁寧にクラッチを繋いで、滑らかに車を発進させた。
「すっかり安心して座っていられるようになった」
スポーツグラスを顔の前に戻した稜而は、助手席の椅子に深く座り直した。
「うふふ。免許を取ってから毎日、稜而やお父さんやミコ叔母さんや建志やロンロンを助手席に座らせて、はらはらさせながら練習した成果なのん。もう首都高も怖くないのん」
遥はくすぐったそうに笑い、稜而は遥の横顔を見た。
大理石彫刻のように凹凸のはっきりした横顔、若草色の虹彩を持つ目はティアドロップ型のサングラスで覆われ、バラ色の頬は光り、ドレンチェリー色の唇は濡れたような艶を載せている。
骨格は男性の特徴を有しているが、華奢で、肉も薄く、サマーセーターの内側で身体が泳ぎ、首元から鎖骨がのぞく。
「悩むな……」
高速道路を降りて、一般道の赤信号で停止したタイミングで、稜而は呟いた。
「どうしたのん?」
「部屋付きの露天風呂でするのは当然として、せっかく和室なんだから、畳の上でもしたいし、もちろん布団の上でもしたい。一泊二日しかないのに、時間足りるかな?」
真顔で指折り数える稜而に、遥はハンドルを叩いて笑う。
「欲張りすぎなのん! おうちでできることは、おうちですればいいと思うわー!」
「なるほど。優先順位をつけるなら、まずは露天風呂か……」
懊悩としている間に、車は国道を離れ、カーナビの案内に従って入り組んだ道を走り、谷川に架かる橋を渡ると、ふつふつと砂利を噛んで、旅館の車寄せへ回り込んだ。
「いらっしゃいませ、入汲 温泉へようこそ」
旅館名入りの法被を着た男性と、水色の色無地を着た仲居の女性たちが駆け寄ってくる。
「お世話になります」
遥が車を移動する間、荷物を持った仲居に案内されてフロントへ行き、稜而は宿帳に名前を書いた。
渡辺 稜而
渡辺 遥ラファエル
書き込んだ名前を見ていたら、遥が入って来て、車のキーをフロントへ預けながら、宿帳をのぞき込んだ。
「遥ちゃんの名前、ちゃんと、わ・た・な・べ、遥ラファエルって書いていただけましたかしらーん?」
わざとらしく確認して、フロントの男性と目が合うとニッコリ笑った。
「ごきげんよう、妻です♡」
「新婚さんでいらっしゃいますか?」
「はいなのん。まだ触ったら火傷しちゃうくらい、ほやほやですのん!」
「そうでしたか。一番楽しいときですね。新婚時代の楽しさをしっかり味わっておくと、その先の結婚生活の糧になるそうです。どうぞ今回のご旅行もよいものになりますように。従業員一同、心を込めておもてなしさせていただきます」
左の薬指に細かい傷がたくさんついた指輪を嵌めて、明るい笑みを浮かべるフロントマンに、遥は若草色の目を細め、バラ色の頬を持ち上げ、ドレンチェリー色の唇を左右に引いた。
「遥ちゃんたちのこと、よろしくお願いいたしますですのん!」
「かしこまりました」
フロントマンの笑顔に、遥も笑顔で頷いた。
話に区切りがついたタイミングで、仲居の女性が遥に話し掛ける。
「奥様、どうぞあちらで浴衣をお選びください」
「え、彼は……」
稜而は慌てて振り返ったが、遥は仲居のあとをるんたった、るんたったとついていき、色とりどりの女性用浴衣を見比べ、笑顔で身体に当てて選び始めた。
「あ、いいんだ……。喜んで選ぶんだ……」
遥は二枚の浴衣を手に、稜而のところへ駆け寄ってきた。
「あーん、キャベツぅ! 紺色と、撫子色、どっちの遥ちゃんを脱がせたいー?」
「え? 撫子色!」
はっきりした声で返事をしてしまい、目の前のフロントマンは即座に俯いて、小さく肩をふるわせた。
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