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第97話

「ああ、これは気持ちがいいな!」  露天風呂へ出た稜而は両手を空に向け、ぐっとのびをして、空を仰いだ。  屋根は庇部分のみ、一歩踏み出せば頭上には明るい夏空がどこまでも広がっていて、蝉の鳴き声がこだまし、日本庭園の向こうには、緑の山と白く光る入道雲が見えた。  切り出した硯石をそのまま、内側だけくり抜いてある浴槽には、竹の樋から蕩々と湯が流れ込んで、立ち上る湯気は空へ溶けていく。  ときどき鳶のピイッという鳴き声が空を貫き、そのままヒョロロロと長く引きずって空にたなびくのを聞きながら、二人は身体を流し、温泉へ身を浸した。  遥はいつも通り、稜而の脚の間に座り、稜而の胸に寄りかかってくつろぐ。 「はー、ビバノンノンなのよー。♪はーンれたそらァァァ、そーンよぐかーぜェェェ! やまのー、たにまのー、おーんせんたのしー!♪ 憧れの露天風呂エッチなのーん! 稜而念願の野外ファックも叶っちゃうのよー!」 「俺、そんな願望を口にしたことあった?」 「一昨日の夜。遥ちゃんが見たときには稜而はティッシュを捨てて寝てて、携帯の画面には、森の中のハンモックに寝たお兄さんが、かもん! って言って、下から編み目越しに、もう一人のお兄さんが、おーいえー! おーいえー! ってしてる動画が再生されてたのん」 「そう言えばそうだった。楽しそうで結構好きな内容だったけど、もう探せないだろうな」 「あるあるなのん。遥ちゃんも探せない動画いっぱいあるのん。賢者タイムに清々しい気持ちで消しちゃうのよー!」 「ああ。あの時間だけは、もうこんな動画は二度と見ることはない、と思うからなぁ……」 「遥ちゃん、ずーっと賢者タイムでいられたら、今頃とっくにお医者さんになって、世界中の患者さんを救ってると思うわー。えっちっちーが大好きなばっかりに、患者様におかれましては、ますます未来でお待たせ致しておりまして、ごめんなさいなのよー」 「何事もバランスが大事だからな。人間が人間を診ることが大事なんじゃないかと思うけど。俺は学生の頃、先生に『人間味のある人間になれ』と言われたのを今でも覚えてる」 「……って、えっちっちーな稜而先生が言ってまっすーーまっすーーーっ! やっほっほーーーっ!!!」 遥は口の横に両手をあてて、山に向かって大声を出し、稜而は苦笑する。 「いくら離れの宿でも、近所迷惑だ」  遥の頬に向け指先で水面の湯を跳ね上げる。 「あーん。遥ちゃんの口を塞ぎたかったら、稜而の口で塞ぎなさいなのよー!」  稜而は遥の顎に手を掛けて振り向かせ、静かに唇を重ねた。柔らかな感触と、少し汗の混じった塩味を感じてから口を離した。 「遥、お静かに」 「はーいなのん!」 「おりこうさん。いい子だから、気持ちよくしてあげる」  稜而は立ち上がり、遥の手を引っ張り上げると、浴槽から出て洗い場へ行った。 「やーん、鏡に映しながらの立ちバックなのーん!」 「誰がそんなことを言った?」 遥の肩を押して椅子に座らせると、上を向かせ、髪の生え際に沿ってシャワーの湯を滑らせていく。 「♪Uh-Oh, We're in ONSEN, RYOJI's Come Along And It's Make My Bubble! ♪ おーいえー!」 「このプレイも好きだろ?」 「ふふっ。だいすきよー! 頭を洗ってもらうの、気持ちいいのん。拾われた猫ちゃんみたいな気持ちになるわ。温かい寝床と、鰹節のかかったご飯をもらって、羽根がついた首輪をつけてもらって、ずっと稜而と一緒にいるのよー」 二人の首には、大天使ラファエルの翼をかたどったプラチナのペンダントが下がっている。 「このペンダント、誰も何も言ってくれないのん。稜而とお揃いでしてるのに、『あらカッコイイペンダントね! どうしたの?』も、『稜而とペアなんて仲良しね』も言ってくれないのよー。ご不満だわー」 目を閉じたまま、遥はぷっと頬を膨らませる。 「俺、ママンに『素敵なペンダントね』って言われたから、『遥とお揃いだよ』って答えておいたけど。それで話が行き渡ったんじゃないか」  花の香りがするシャンプーを手のひらで泡立て、遥の髪に乗せながら、稜而は事もなげに言った。 「えー。遥ちゃんも言われたかったのーん! 稜而ずるーい!」 「ずるいって言われても……」 「遥ちゃんも言ってほしいのん! 『素敵なペンダントですね。どうしたの?』って訊いてなのよ!」 「『素敵なペンダントですね。どうしたの?』」  遥は上向いて目を閉じたまま、ドレンチェリーのように唇を左右に引く。 「うふーん。キャベツにクリスマスプレゼントに頂きましたのん。お揃いで、二つ合わせると一対の翼になるんですのよ。ロマンチックでしょでしょなのん。いつも肌身離さず身につけてて、エッチするとき裸ん坊になっても、ネックレスだけはつけたままなんですの。おほほほほ」 遥は稜而に頭を洗ってもらいながら、口の横に手の甲を添えて高笑いして見せた。 「満足した?」 「すっきりしたわーん。ずっと言ってみたかったのん」 「それはよかった」 稜而は弓形に目を細めると、指の腹で遥の頭皮をマッサージするようにしながら洗う。 「気持ちいいのーん……。♪はるかちゃんの、ながいかみを、あわがやーさしくつつーむ、りょうじはー、むねーにしろーい、あわあーわーを♪」  機嫌よく歌う遥の頭を持ち上げ、耳の後ろやうなじまで丁寧に洗って、たっぷりとシャワーの湯で流す。  トリートメントは毛先を中心によく馴染ませて、しっかりと洗い流し、最後は熱めの湯で絞った浴用タオルで頭を包み込んだ。 「稜而、シャンプーとっても上手なのん。ありがとうございましたなのよー」 洗い場の鏡に映る遥の顔を、稜而は細い肩越しにのぞき込んだ。 「どういたしまして。……ご褒美くれる?」 「もちろんですのん」  遥は若草色の目を細め、唇をすぼめて、口の中でキスの音を立てた。

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