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第100話
タオルで互いの汗やぬめりを拭き取ると、稜而は一糸まとわぬ姿のまま歩き回り、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを二本持ってきて、一本を遥に差し出した。
「水、飲む?」
「ありがとうなのん。……はあっ、美味しい! この一杯のためにえっちっちーしてるのん! しみるわーん!」
「確かに。スポーツのあとのビールより、セックスのあとの水のほうが美味しい」
冷たい水をごくごく飲んで、稜而はベッドへ倒れ込むと、遥を抱き寄せるなり、ぐっと深い眠りに落ちた。
「射精するって疲れるのん。遥ちゃんもおねむよ……」
薄く口を開けて眠っている稜而と自分の身体を掛布団で覆い、遥も目を閉じた。
稜而の体温や日向ぼっこの匂いを感じ、大きく息を吸って、吐いて、リラックスして眠りに落ちる。
水の中へ直立不動で沈むように抵抗少なく眠りに落ちて、水底を蹴って浮上するように目覚めた。一瞬の眠りに思えたのに、目を開けたとき寝室は闇に沈んでいて、遥は稜而の身体を越えてサイドテーブルへ手を伸ばし、手探りでフットライトをつける。
「おはよう」
下から手が伸びてきて、そのまま温かい肌に抱かれた。
「あーん、起こしちゃった?」
「ううん。起きてた。遥の寝顔が可愛いなと思って見てた。ずっとキスするのを我慢してたから、キスしたい」
稜而の腕の中へ引き戻され、髪に、鼻に、額に、頬に、瞼に、唇に、顎にと、隙間なく唇か捺される。
「くすぐったいのん」
「それだけ?」
腰を抱かれ、脚を絡められ、押しつけられた。
「うっそーん! お元気なのーん!」
遥が笑ったときには、もう稜而の手は遥の肌を滑り、胸の粒を捉えて捏ねまわされる。遥の身体にも火が灯り、高まる気持ちのままに疼く腰を繋げて揺らし、思いを遂げた。
「お星様がたくさん見えるのん!」
ようやくベッドを抜け出し、部屋付きの露天風呂に身体を沈めると、東京とは比べ物にならないほどたくさんの星が夜空に瞬いていた。
「星座もわからないくらい、ぎっしりだな」
「空のふちどりが四角いビルじゃなくて、山の稜線なのも素敵よ」
「ああ。遥とこんなふうに星を見上げるの、ロマンチックでいいな」
「♪みあーげてごらんー、よるのーほーしをー、たくさんのほーしーのー、たくさんのひかりがー、ぼくたーちにきらきーらと、てをふっているよー♪ ひゃっほー、ほかの星にお住まいの皆さん、お元気ですかー! 遥ちゃんと稜而くんは元気ーっ! マズローの三大欲求だけを満たす旅行をしてますのーん!」
濡れた両手を星に向けてきらきらと振って見せ、稜而は飛んでくる水滴に笑いながら立ち上がった。
「性欲と睡眠欲の次は、食欲を満たしに行こう」
遥はミントグリーンのシュシュで梳かした髪を丁寧に片耳の下に寄せて束ね、撫子色の浴衣ほ襟元をきちんと合わせ、少し衣紋を抜き、帯でしっかり押さえてから、袖なしの薄い羽織を重ねて、幅広の台に梵天の鼻緒がすげられた庭下駄を履いた。
遥が玄関を出ると、一足先に出ていた稜而が振り返って、遥に向けて手を差し出していた。遥は赤い鼻緒の庭下駄でぴょんと一歩踏み出して、稜而の温かくて大きな手を握る。
「♪てーを、つ・な・ごーう! あいでもキスでも、エッチもおふろも、いろいろしてたいのーん、ねえ、はるかをはなさないで! ぎゅっとはるかをだきしめて♪」
つないだ手を前後に振りながら歌っていたら、稜而に手を引っ張られた。
「どうしたのん?」
無言で小さなあずまやの陰へ引っ張り込まれ、ぎゅっと抱き締められる。
「抱き締めてって言うから」
耳許で理由を教えられて、遥は笑った。
「あーん。それはお歌の歌詞よ。でも、嬉しいのん」
遥もきゅっと稜而に抱きつき、稜而は表情を緩めて遥の後頭部を優しく撫でた。
「よかった。好きすぎて遥の重荷かなと心配になりかけてた」
「そんなことないのん。遥ちゃんは飛び跳ねて歩く子だから、重荷がないといなくなっちゃうのよ! それと、もし不安になったらいつでも訊いて。『俺のこと愛してる?』『どれくらい愛してる?』って。わからなかったら訊くのが当たり前なのん」
「なるほど。……俺のこと、愛してる? どれくらい?」
「もちろん愛してるわ、キャベツ。お星様の数と同じだけ愛してるって言葉にしてもまだ言い足りないくらいよ」
「ありがとう。俺も遥を愛してる。気持ちが大きすぎて、宇宙に収まりきらないくらい」
「嬉しいのんっ!」
遥は稜而の頬にちゅっとキスをして、稜而は遥の顎を指先で捉えて、唇にキスを返した。
それからまた敷石の上を歩き、厨房近くの個室へ案内されて、厨房でできあがったばかりの料理をすぐ目の前に並べてもらって堪能した。
「こちら、裏の山で採れた山芋の梅肉和えですっちゃ」
「美味しいですのん!」
「こちら、鰻のお寿司」
「美味しいですのん!」
「こちら、アスパラガスのごま和え」
「美味しいですのん!」
「こちら、にらのおひたし」
「美味しいですのん!」
「こちら、にんにくのたまり醤油漬け」
「美味しいですのん!」
「こちら、すっぽんの煮こごり」
「美味しいですのん!」
遥は出される料理をぱくぱくと平らげ、食べるごとに天井に顔を向けて、鼻からむふーんと息を吐いて喜んでいる。
「あの、ずいぶん精のつく食べ物が並びますね。夏だからですか?」
稜而がお品書きを見ながら訊ねると、仲居の女性は笑顔になった。
「入汲 温泉は昔から湯治場として有名っちゃね、谷川の向こうには温泉を利用したリハビリテーション病院があるんですよ」
土地の言葉を混ぜた説明に、稜而はうんうんと頷く。
「存じています。全国的にも有名で、あのリハ病院で学びたいと思っている人はたくさんいます。俺も見学を申し込んでみたんですが、年度内はもう定員オーバーだそうで」
「ええ、ええ、全国からたくさんの方がお見えになるようですっちゃ。効能のある温泉ですから、お越しになったお客様には、どうぞ元気になってお帰り頂きたいって、料理長が考案したメニューっちゃよ。次はメインディッシュをお持ちいたしますっちゃ」
「おーいえー!」
遥は両手を天井に向けて突き上げた。
「こちら、『貴腐豚 』の溶岩焼きでございます。このあたりはワイン用のブドウがよく採れるっちゃけ、ワイナリーもたくさんあるっちゃき。その中でも特に甘い貴腐ワインの絞りかすを食べさせて育てた豚肉ですっちゃあ」
黒い石板の上で、シンプルに岩塩だけをまとった豚肉が、まだ中心にほんのり桜色を残した姿で現れた。遥は立ち上る湯気と脂の香りを嗅いで、目を閉じ、顔を左右に動かす。
「美味しそうですのん! この『貴腐豚』って、さっき高速道路でお昼寝してた豚さん……?」
「さっき通行止めになったって聞きましたっちゃけ、ご存じっちゃか。養豚場から精肉工場へ移動する途中だったちゃけ、察して逃げちゃったのかも知れませんっちゃねぇ。ふふふ」
仲居の女性は笑い、遥はしげしげと豚肉を眺めた。
「あの豚さんかしらん……?」
「捌いた後に低温で熟成させるっちゃけ、今日捌いた子ではないと思いますっちゃよ」
「……でも、数日後には……。あーん、ありがたく美味しくいただきますのよー!」
遥は目を閉じてしっかり両手を合わせてから、一口大に切り分けられている溶岩焼きの貴腐豚を箸でつまんで口にした。
「ふおおおお、美味しいのーん! 柔らかくて、脂が甘いのにさっぱりしてて、フルーティーな香りがしますのん! お肉は噛めば噛むほど美味しい味が染み出してきますのよー! ずっとずっと飲み込まずに噛んでいたいくらいですのん! 養豚場の人も、精肉工場の人も、料理長さんも、豚さんも、皆さんありがとうございますなのよー!!!」
天井に向かって両手を組んで、頭を小さく左右に振る。
「豚肉も精がつくそうですよ。どうぞしっかり召し上がってくださいっちゃね」
「おーいえー! いただきますっちゃー!」
遥は「命に感謝なのーん!」と言いながら、出された食事のすべてを平らげた。
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