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第101話

「明日のご朝食は、貴腐豚のベーコンをご用意いたしますっちゃけ、お楽しみになさってくださいっちゃ。近くをお散歩なさって、お腹を空かせてからいらっしゃるのも、よろしいと思いますっちゃあ」 「わあ、お散歩! おすすめのお散歩コースはありますのん?」 「そこの谷川は水がきれいで、魚のうろこが光るのまでよく見えますっちゃ。ここ数日雨が降っていませんから、濁りがなくて、とてもいいと思いますっちゃよ。明日も晴れの予報ですから、朝のお散歩は気持ちがいいと思いますっちゃ」 「ぜひぜひそうしますのん! お散歩して、お腹ペコペコで豚ちゃんのベーコンをいただきますわーん!」  仲居たちとおやすみなさいと挨拶を交わし、部屋に戻って、二人はまた風呂に入って、ベッドの中でさらに求め合ってから、二人は頭を寄せ合い、朝までぐっすりと眠った。 「おさんぽ、おさんぽなのよー! ♪あたーらしいあさがきたっ、さんーぽのあさーだ、ベーコンにくちをひーらけ、おなかーをすかせー♪ ひゃっほー! るんたったなのよー!」 「走るな! 転ぶぞ……って、ああっ! ……セーフ」 河原のゴロ石の上をすっ飛んで歩く遥の後ろ姿に、稜而は手を伸ばし、息を止め、胸に手をあてて息を吐く。 「それにしても朝から暑いな……」  陽射しを遮るものがない河原で、稜而は空を見上げた。薄い水色の空に鋭い光を放つ太陽があり、じりじりと皮膚を灼く。 「んんーーーっ、がっ! うおりゃっ、あーっ!」 遥は肩幅に足を踏ん張ると、漬物の重石にできそうな大きな石を両手で持ち上げて、脚の間から勢いをつけて川の中へ投げ込む。ドシャンっと川底に石がぶつかり、水が跳ねて、遥はひゃっほー! と大喜びだった。  稜而は遥の隣へ歩いて行き、自分のジーンズのベルト通しに下げていたキャップを外して、遥の頭にかぶせた。 「熱中症になるなよ。もうかなり気温が高いし、湿度も高い」 「あーん、このつばのふちは破れてるんじゃないの。ダメージ加工っておしゃれなお帽子なのよー! 稜而のジュニアがかぶるお帽子は透き通ってて破れちゃダメだけど、このお帽子は破れててもしっかり陽射しを遮るのーん!」 「そうそう、だからちゃんとかぶっておけ」 ぽんぽんと頭を撫で、また大きな石をひっくり返している遥の隣で、小さな石を拾い上げて水切りをした。 「三回。うーん、上手くいかないな」  もう一度平らな石を選んで拾い上げ、川と垂直に構えて立つと、手首のスナップをきかせて水面と水平に投げる。水面ではじかれた石は跳ね上がり、跳ね上がり、対岸まで五回飛んで満足したとき、斜面の上にある道路から、遥の大きな声が聞こえてきた。 「きゃあああああああああっ!」 尋常ではない叫び声が山に反射してこだました。 「ん、どうした? ……どうしたーっ?」 「お、おおおお、おじいさんっ! おじいさんっ! た、たすけてっ!」 「はっ?」 稜而は足場を確かめながら、斜面を駆け上がり道路へ出た。  アスファルトを敷き詰めた歩道の上で、色あせたつなぎを着た老齢の男性がガードレールに寄りかかって目を閉じていた。 「どうした、遥?」 「おじいさんがっ! はあはあってなってて、ぶるぶるってした手でガードレールに掴まって、がくんって! がくんって!」  稜而はすぐ顔の横へ膝をつき、そっと肩を叩く。 「わかりますか、わかりますか、もしもし? わかりますか……っ」 次第に声を大きくしながら声を掛けつつ、頸動脈に触れ、鼻と口に耳を寄せると、仰向けにするなり重ねた両手で胸骨を圧迫し始めた。 「汗が出てないな。体温も高いみたいだ……。どこか木陰」 落ち着いて見回してみれば、旅館の駐車場が目の前で、生い茂った松の木が影を作っていた。 「あの松の木の下へ運ぼう。遥、足を持って!」 数メートルの距離を運び、平らな場所を選んで横たえると、稜而はベルトとつなぎのファスナーを緩め、またすぐ両手を重ねて、下の手の指を絡めて引き上げ、胸骨圧迫を再開する。 「遥、救急車を呼べ」 「えっ? えっ? お、おーい、きゅうきゅうしゃー!」 「そうじゃない! 携帯で電話しろ。緊急通話ボタンを押せ! 一一九だ!」 しかし、遥の手は携帯を振り落としそうなほどに震えていた。 「あの、あの……っ、あのあの」  稜而は遥の手から携帯を取り上げると、緊急通話ボタンを押して、一一九をコールした。スピーカーに切り替えて自分の隣に置くと、また両手を重ねて指を絡め、手のひらで胸骨を圧迫する。 「……救急車を要請します。七〇代前後と思われる男性、CPA、熱中症と思われます。場所は入汲温泉、旅館・入汲荘の駐車場です。胸骨圧迫してます。こちらの電話番号は……」 稜而が話す間、遥はただ両手を口にあて、見開いた目を震わせていた。 「遥、右手を出せ。俺が五つ必要なものを言うから数えろ。旅館の中へ行って、一、誰でもいいから人を呼べ。二、AED。三、タオル。四、水。五、救急箱。覚えたな? 行け!」 遥は青ざめた顔のまま、旅館の中へ駆け込んで行った。  すぐにAEDを抱えたフロントマンが駆けつけ、オレンジ色のケースを開けた。 「あっ、社長!」 「社長さん? ……ああ、Tシャツが邪魔だな。はさみ! はさみ持ってきて!」 稜而は胸骨圧迫を継続しながら指示を出し、群がり始めていた人の中の一人が旅館の中へ引き返したとき、男性が激しく咳き込み始めた。 「わかりますか? ……ああ、頷いてるね。誰かタオル、頭の下に敷いてあげて。ええと、救急箱から体温計出して。保冷剤ある? 団扇で扇いで! もし霧吹きがあったら持ってきてくれる。……ああ、頭は横向きにしてあげて。回復体位にしよう」 「建物の中へ運びましょうか。担架を持って来ましょうか」 「そう、だね。うん。涼しい部屋がいいんだけど」 胸骨圧迫を繰り返して疲れた手首を振りながら、稜而は担架のあとをついていき、部屋の中で男性の体温を記録し、両脇やそけい部などに保冷剤をあて、霧吹きで水を振りかけながら団扇で扇ぎ、スポーツ飲料を少しずつ飲ませた。 「結構しっかり飲めてるみたいだね、よかった。ガーグルベースンがあったら、……洗面器にビニール袋をかぶせたのでもいいよ。持ってきておいてもらおうかな。吐くかも知れないから。……この辺、救急病院ってどこにあるの? 遠い?」 「リハ病院が内科と外科の救急を受け入れています。そこがダメだとなると、隣町の総合病院まで車で五〇分くらい」 「それは遠いな。リハ病院で受け入れてくれるといいけど。この方の身元はわかる?」 「ウチの社長です。私の父です」 「そうでしたか。保険証や医療証、診察券があれば用意しておいたほうがいい。ご家族か、病歴がわかる近しい方が、一緒に救急車に乗れるといいんだけど」 フロントマンの男性が保険証と医療証と診察券を持ったとき、サイレンが聞こえてきた。 「誰か、外に出て救急車と隊員を誘導してあげてください。……遥。俺は救急車に乗るから、遥は車を運転して後ろをついてきて。帰りに救急車でここまで送ってもらうの悪いから、帰りは自分の車でここまで戻ってきたい」 「は、はいなのん……」 血の気を失い、青白い顔をしている遥に、稜而は笑顔を向けた。 「出発前に行き先は決まるから、赤信号で離れても、カーナビの言うとおりに運転すればいいよ、大丈夫!」 ぽんぽんと頭を撫で、背中を叩いて笑った。

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