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第102話

 稜而が救急隊員と話をして、救急隊員が受け入れ先を探している間、遥はフロントに預けていた車のキーを受け取り、駐車場に停めていた車にエンジンを掛けた。日陰に停めてあったのに車内の空気は熱く、窓を全開にしてエアコンを稼働させながら、空気が冷えるのを待つ。  車の隣に立って実用一点張りのウェリントンフレームの眼鏡を念入りに磨いていたら、声を掛けられた。 「遥」 「はいなのん」 稜而は救急隊員からもらった水色のプラスチックガウンを着て、薄いグローブを両手に嵌め、顔の下半分をマスクで覆っていたが、そのマスクを顎の下に引き下げた。 「行き先はリハ病院に決まった。カーナビにセットして、焦らず、交通ルールをよく守って、安全運転であとから来て。お前まで交通事故なんて事態になったら、さすがに俺のキャパを超えるからな」 「はいなのん」  救急車の中では、すでに稜而が処置した生理食塩水の点滴が始まっているのが見えた。 「救急車は赤信号でも直進するけど、遥はちゃんと停まるんだぞ」 遥はこくんと頷いた。  救急隊員が稜而の近くまでやってきて、「先生、そろそろ出発しようかと思うんですが」と声を掛けた。 「わかりました。……とにかく遥は安全運転で」 稜而はそう言うと救急車へ乗り込み、ハッチバックのドアが閉められた。 「遙ちゃん、しっかりしてなのん。安全運転よ! しっかり前を見なさい! 左右も前後もちゃんと見なさい!」  自分の頬を両手でぺちぺちと叩いて、遥は走り出した救急車の追走を始めた。  リハビリテーション病院へは一〇分ほどで到着し、遥はひたすら追走を続けた挙げ句、気づけば救急車専用の出入り口まで一緒に入っていた。  半透明のガラスの自動ドアから白衣姿の人たちが迎えに出ていて、稜而はハッチバックドアから出て軽やかに着地すると、点滴を掲げて進む先と患者の様子を交互に見ながら、ストレッチャーに付き添って建物の中へ入って行った。 「稜而、お医者さんなのよ。真面目なお顔が素敵なのん! また好きになっちゃうのーん!」 両手で頬を包んで見送っていたら、運転席側の窓を叩かれた。 「あんた、患者さんのご家族っちゃか?」 赤い誘導灯を持ち、紺色の制服を着た男性に顔を覗き込まれる。 「いいえ、妻です♡」 「奥さん? 奥さんば、一般の駐車場ば行ってくれっちゃ! ここは救急車しか停まれないっちゃよ!」 「はいなのん」 建物を回り込んだ反対側の一般駐車場に車を停め、ハンドルを抱えてぼんやりした。 「ふう……、なんか、カッコイイ稜而を見たら、凹んできちゃったのん……」 車を降りて自動販売機へ行くと、ミネラルウォーターを一本買い、その場でキャップを開けてごくごくと半分ほど飲んで、残りは空に向かって顔を上げて、額に向けてどぼどぼとぶちまけた。 「んがーーーっ!」 片手で荒っぽく顔を拭い、膝に手をついて地面へ向くと、遥は奥歯を噛んだまま叫んだ。 「ちくしょう! ちくしょう、ちくしょうっ!」 コンバースを履いた足で交互に地面を踏みつけ、さらに両足で同時に飛び上がって地面を踏みつけて、最後の五回は両手を握りこぶしにして飛んだ。 「もうっ! 遙ちゃんっ! ってば! しっかりっ! なのんっ! ……むきーっ!」 自動販売機に向けて糸切り歯を見せてから、遥はコーラを買って車に戻った。 「はあっ。凹むわー。げふー……。♪ぼくのーみらいへーつーづく、ながーい、いっぽんみちにー、たまーにぼくーはふあんになる。とてもーとてもーけーわーしく、ほそいみちにーみえるから、いまぼくは…………♪」 遥は助手席に投げてあった携帯が震えて目の焦点を合わせ、手を伸ばした。 「うん、一般駐車場にいる。建物側」  会話する間に、まばらに置かれている車の間から、軽やかに駆けてくる稜而の姿が見えた。  夏の陽射しを受ける稜而の姿は、眩しいほど輝いて見えた。 「♪じぶんのーおおきなゆーめを、おうことが、これからの、ぼくの、しごとなんだけーど……♪」 助手席のドアを開けた稜而は乗り込まず、顔だけのぞき込んで笑顔で言った。 「お疲れ様。運転替わるぞ」 「うん……」  素直に頷いて助手席に座ると、稜而は遥の膝に大きな封筒を置いた。 「何、これ?」 『入汲整形外科リハビリテーション病院』と印字された封筒は口が開いていて、中をのぞくと病院の外観が表紙になったリーフレットと、事務的な書類が数枚入っていた。余白に手書きで研修担当○○、内線××××とメモ書きされている。 「資料。欠員が出たら、見学させてくれるって。ダメだと思っても、言ってみるもんだな」 稜而はカーオーディオを操作して、流れ始めたマドンナのライク・ア・ヴァージンに合わせ、楽しそうに歌を口ずさみながら、運転席で座席とミラーの位置を調整してスポーツグラスを掛けた。 「出発進行!」 明るい声で車を発進させて、旅館を目指す。 「……おじいさん、大丈夫だったのん?」 「ああ。年齢もあるし、脱水は重度だったから、しばらく経過観察は必要だと思うけど、遥がすぐに気づいて声を上げたのが幸いだった」 「そう……。すごく怖かったのん。人の身体があんなに震えるの、見たことなかったわ。身体が崩れていくのに、何もできないでただぼーっと見ちゃって……」 「そんな、咄嗟に動けるものじゃない。普通だ」 朗らかな声に、かえって遥は俯いた。 「遙ちゃん、正直に言うと一歩後ろに引いちゃったのん。ちょー、ちょー、自己嫌悪よ。人が倒れるのに、前に出ないで、後ろに引くって、最低なのん。がおーっ!」 遥は低い声で唸り、コーラを飲んだ。 「二次災害や感染のリスクがある。闇雲に駆け寄って手を触れればいいというものじゃない。今回、『前に出ればよかった』『人が倒れたとき、前に出たい』と思えただけで、大きな進歩だ」 「そう? ……オレ、医学部なんて行っていいのかな?」 病院名が印字された封筒を撫でながら、遥は覇気のない声を出した。 「もちろん行っていい」 稜而は遥の言葉にあっさり頷いた。 「でも、びっくりしすぎて、何もできなかった」 「今からそんなにいろいろできたら、俺の立場がないな!」 俯く遥の姿を稜而は笑い飛ばし、伸ばした手の甲で遥の頬をむにむにと撫でた。 「俺だって急変は焦る」 「稜而、焦ってたのん?」 「かなり。整形外科医は、飛行機の中で『お医者様はいらっしゃいませんか』って言われても、役に立たないタイプの医者だ」 稜而は前髪を吹き上げ、遥はようやく少しだけ笑った。 「もしそういう場面に遭遇したらどうするの?」 「一応、名乗り出る。ほかに専門の先生がいらっしゃれば、お願いして引き下がる。いなければ、できる限りのことはする。……そんなにいろいろできないけど」 「実際にそういう場面に遭遇したことある?」 「新幹線の中で一度。内科の先生がいらっしゃったから、よかった」 「医者になっても、万能じゃないんだね」 「もちろん。医学が進歩すればするほど内容は複雑になって、一人の医者では担いきれず、それぞれが分担して専門分野に特化していく。でも少しでも多くの人を助けたいという正義感は共通だと思う」 「正義感かぁ……。遙ちゃん、そんなカッコイイこと考えてないかも知れないのん」 「大丈夫。入学してから、だんだん医者になりたいと思うようになるんだ。学部で六年間、その後に初期研修で二年間、さらに専門医を目指して四年以上。時間を掛けて学んで、経験を積んで、育っていく。心配しなくていい。スタートラインは皆、そんなもんだ。教える側もわかってる」 「うーむ……」 「むしろ今の遥のほうが、医学部の一年生よりよっぽど正義感があるかも知れない。医者として一人前になるのは時間がかかる。肩の力を抜いていかないと、息切れするぞ」 「ふうむ、そういうものか、なのん」  遥は自分の髪の毛の先を鼻の下に挟み、もぐもぐした。

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