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第103話
「おかえりなさい。支配人から連絡がありました。社長ば、ゆっくり休めばもう大丈夫だって。先生のおかげですっちゃー!」
「先生、お疲れ様でしたっちゃね! ありがとうございますっちゃー!」
えんじ色の作務衣を着た仲居たちがわらわらと出てきて、さらに法被姿の男性たちも出てきて、稜而を囲んだ。
「よかったです。俺は大したことはしていませんから、あの、そんな……。どうぞ皆様、お仕事をなさってください……」
稜而は顔を赤くして手を振ったり、頭を振ったりした。
取り置いてくれていた朝食を食べ、稜而がチェックアウトの手続きをしている間に、遥が荷物を積んでいると、旅館の人たちが発泡スチロールのクーラーボックスを持ってきた。
「これ、『貴腐豚 』のハムやベーコン、味噌漬け、ソーセージなんか入ってます。まだ県外へ貴腐豚を出荷できるほどの生産はできてないっちゃけ、東京では買えませんから、持ってってください。ちょっと焼くだけで美味しく食べれますから!」
「え? あ……、ありがとうございますですのん……?」
自分たちが持ってきたスーツケースより大きなクーラーボックスを、スポーツカーの狭いラゲッジスペースに半ば強引に押し込んで、リアウィングがついたバックドアを閉めた。
「稜而にも言わないと……」
「ああ、先生にはあとでお伝えくだされば結構ですよ」
伝えに行こうとしたのを押しとどめられ、遥だけが礼を言って、助手席に座った。
「またのお越しをお待ちしております。どうぞお気をつけて!」
スタッフ勢揃いの見送りに恐縮して頭を下げつつ、チェックアウトを終えた稜而は車を発進させた。
「こんなに見送って頂いて、気を遣わせて申し訳なかったな」
稜而は苦笑して前髪を吹き上げ、丁寧な操作で車を運転して、谷川に架かる赤い橋を渡り、県道に出て最初の赤信号で首を傾げた。
「なんか、この車、重くないか? ブレーキの掛かりが悪い」
青信号になっても、操作をしてから実際に走り出すまでの時間が少し長く、うんとこしょ、と動き出すような感覚があった。
「あのぅ……、実は旅館の方から『貴腐豚』さんをいただいたのよ」
「は?」
「先生にはあとでお伝えくださいって、後ろに積んでくださっちゃったのん」
「お前、受け取ったのか?!」
「はいなのん。ちゃんとありがとうございますって言ったわよ」
稜而に向けて首を傾げ、遥は優雅に目を細める。しかし稜而はハンドルを手のひらで軽く小突いた。
「あー……、やられたっ。俺、フロントで断ったんだ。そんなの受け取れないって。そういうものを頂くためにやってる訳じゃない! 当たり前のことをしただけなのにっ!」
稜而は盛大に前髪を吹き上げた。思いがけない剣幕に遥が息を呑んでいるのに気づくと、もう一度前髪を吹き上げて語調を緩めた。
「きっと俺に返させないように、遥に口止めしたんだろうな。今さら引き返して突き返すのも感じ悪いだろうし……。仕方ない、東京に戻ったらお礼状を書くか」
「わーい! お礼状は、遥ちゃんが書きますのん! 差出人の渡辺稜而ってお名前の左下に“内”って、ちょっと小さめに書くんですのよ! だって、遥ちゃんは妻だからーっ♡ ♪『妻の遥ラファエル、ただいま参上!』やまをとーびー、たにをこえー、りょうじのもとへやってきたー、はーるかちゃんが、やってきたー!♪ にんにんなのよ! ♪ござーる、ござるよ、はるかちゃんはー! ゆかいなおくさん、ワイフでござるー、ワイフでござるー♪ ダッチワイフの役割もお任せくださいませませなのーん!」
おーいえー! と遥は笑顔ではしゃぎ、赤信号で車が停まったときに、稜而の頭を抱き寄せて左右の頬にキスをした。
「え? お前……」
稜而は遥の背後の座席を見て、目を丸くした。
「お前、『貴腐豚 』をもらったって……っ?」
「そうよ。ちょっと焼けばすぐに食べれますからって」
遥は背後の座席を見ている稜而の横顔を見ながら頷いた。
「ちょっと焼けばって、俺たちの技能じゃ無理だろ。たぶん、家政婦のむにさんでも無理だ」
「なんでー? 遥ちゃんフライパンくらい使えますのん。むにさんだってお料理得意よ!」
「これ、フライパンで焼けるのか?」
「フライパンで焼かなかったら、何で焼くのん?」
「音楽に合わせてぐるぐる回して『上手に焼けましたー!』みたいなやつ」
「遥ちゃん、ゲームはよくわからないんだけど……」
稜而があまりにも背後を見つめ続けているので、遥も背もたれに身体を巻きつけるようにして、後部座席をのぞき込んだ。
「ひゃあああああ! こ、この子は知りませんのーーーーーんっ!」
遥が座っている助手席と後部座席の間にぴっちり収まって、淡ピンク色の豚が一頭横倒しになっていた。時折ピンク色の鼻をうごめかし、口を満足そうにもぐもぐさせて、腹部は規則正しく上下している。
「寝てる……のん……?」
「たぶん。俺、豚は専門外だけど」
背後からクラクションを鳴らされて青信号に気づき、慌てて走って路肩に停めて、改めて寝ている豚を見た。
「豚ちゃん、ピアスしてるわ。おしゃれさんなのん」
「個体識別のタグだと思うけど。とにかくどこかの養豚場で飼育されてるんだろうから、返さないと」
稜而は携帯電話を耳に当て、先ほどは、いいえ、お気遣い頂きまして、などの前置きを話してから、用件を切り出した。
「……ええ、こちらは時間に余裕があるので、構わないです。どちらへお返しすれば? はい、はい、養豚農協? はい、養豚農協のオオヤさんですね。ええ、住所と電話番号を教えて頂ければ、カーナビで……」
話を聞きながらカーナビに行き先を入力し、稜而は運転を再開した。
スポーツカーはエンジン音も大きく、振動もあるが、遥が心配して何度様子を見ても、豚は薄く口を開け、規則正しく腹を膨らませたり萎ませたりしながら眠り続けていた。
「寝る子は育つっていうけど、この子はきっと『貴腐豚』界でも一番の大物に育つと思うのん……」
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