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第104話
一度渡った谷川の赤い橋をまた引き返し、入汲温泉町へ戻って、田畑の間の道をカーナビの言うとおりに走ると、平屋建ての建物が現れた。
「『養豚農協』って、初めて聞くのん」
入汲 養豚農業協同組合と書かれた建物の脇へ車を停めると、毛布とビニール袋を持った中年の男性が作業着姿で歩いて来た。
「もうもう、お世話さんだっちゃな! 養豚農協の大家 ですっちゃ」
稜而が運転席から降りると、後部座席の豚も立ち上がった。
「豚さん、到着しましたのよー。わかったのかしらん?」
まだ助手席に座っていた遥の肩の辺りに、ハート型の鼻がぬうっと出てきて、水分を含んだ鼻息が遥の顔にかかる。
「あんまり車を汚さないでほしいのん。この車は稜而の宝物なの、お願いよ」
豚はつぶらな瞳を細めた。口角が上がって、笑っているように見える。
「おりこうさんなのね」
褒められた豚は大きなあくびをすると、四本の足を踏ん張ってぶるぶるっと身体を振るう。顔に耳がぱちぱちと当たって音を立て、軽いスポーツカーの車体と遥の身体が一緒に揺れた。
「ゆーれーるーのんんんんんんん……」
「ごーら、暴れるでねぇっちゃよ! 美味しい餌、やらんちゃーよ」
助手席側に回り込んできた男性が声を掛けると、豚はピイッと鳴いて大人しくなった。
「こいつは常習犯っちゃ。よそ様の車に乗ったら、餌で車の外へおびき出してもらえると覚えちまったっちゃけ……。ご迷惑さんでしたな。ちょっこり、これば持っててくれっちゃね」
「はいなのん」
遥は助手席から出て、犬猫のカリカリごはんのようなペレット入りのビニール袋を受け取り、車から少し離れて様子を伺った。
男性は入れ替わりに頭を突っ込んで車内に毛布を広げると、豚は毛布で覆われた助手席のシートをたやすく乗り越えて、全身の肉を揺らしながら軽やかに車から降りた。
そのままV字型の蹄で遥の足元まで歩いてきて、手に持っているビニール袋に鼻をくっつける。
「豚は鼻が効くっちゃ。その餌、やってくれっちゃね」
「はいなのん」
遥がビニール袋に手を突っ込むと、豚も一緒に鼻を突っ込んで、遥の手から与えるより先にビニール袋から直接ペレットを食べた。
「そのペレットば、貴腐ブドウの搾りかすが混ぜてあるっちゃよ」
「『貴腐豚 』ちゃんなのん?」
「こいつは脱走の常習犯っちゃ。衛生管理された豚舎から出て、そこら辺の熟して落ちた果物やら、生えてる草やら、いろんなもんを食っちょる。『貴腐豚』の規格からは外れた、ただの豚っちゃよー」
「ただの豚さんとして生きるのもカッコイイのん。でももし有名な豚さんとして生きるのをご希望なら、飛行訓練をなさって、アニメ映画の主人公になるのもいいと思うのよー」
「遺伝子は『貴腐豚』を受け継いでるっちゃけ、見た目は『貴腐豚』っちゃ、今度、県道沿いに作る道の駅で、看板豚として飼おうって話になってるっちゃ。またお客さんの車に乗ってしまっては困るっちゃけどなー……」
角刈りのごま塩頭をぐるりと撫でて、男性は笑う。
「車が好きなら、使わなくなった車をおウチとして使わせてあげたら、いいかも知れないのん」
「お前さん、面白いこと思いつくっちゃなぁ! ……って、こら、また車に乗ろうとしてるっちゃな!」
いつの間にか餌を食べ終えた豚は、またスポーツカーの周りを歩き、ときどき鼻を押しつけて匂いを嗅いでいた。
「先生、堪忍っちゃー! あっこのガソリンスタンドに、洗車の名人がおるっちゃき、お詫びにそこで車を洗車させてくれっちゃ。洗車の間、ウチに寄って、昼飯ば食っていってくれっちゃね」
「いや、そんな……」
「ええっちゃ、ええっちゃ、俺の高校の後輩ば経営してるスタンドっちゃね。腕は確かっちゃ。昼飯も、うちのかあちゃんと、ばあちゃんが用意してるっちゃよ。田舎の食べもんちゃけ、口に合うかわからんけども、自分で畑やってるっちゃけ、野菜は新鮮っちゃー!」
「わーい! 美味しいごはん、いただきますのーん!」
「そう来なくっちゃー! スタンドまで、かあちゃんを迎えに行かせるっちゃね」
男性は携帯電話を片手にさっさと段取りをつけると、稜而にガソリンスタンドの場所を教え、自分は豚を餌で釣りながら、飼育小屋へ歩いて行った。
「たまたま乗ってた豚を送ってきただけなのに、いいのかな?」
「豚さんは、幸運の動物なのん。きっといいことがあるのよー! ♪きみはラッキー・アニマル・ピッグー! ドライブすき、とてもかわいい、ただのぶたさん。きみはラッキー・アニマル・ピッグー!♪」
前髪を吹き上げる稜而の隣で、遥は「おーいえー!」とこぶしを突き上げた。
ガソリンスタンドへ行くと、丁重な扱いでスポーツカーは洗車場へ移動されていき、ホースと雑巾を持った手で丁寧に洗われ始めた。
「中もしっかりきれいにしておきますっちゃけ!」
「お、お願いします……」
そこへ真っ赤な軽自動車が入ってきて、運転席から女性が顔を出した。
「養豚農協の大家の家内です。ウチのおとうちゃんが、お世話様ですっちゃー!」
女性は肩まである日除けグローブを嵌めた手を振っていて、遥は運転席へぴょんぴょんと駆け寄る。
「こちらこそー! ウチの稜而もお世話様ですっちゃー! 稜而の妻です♡」
「あらー、もうもう可愛い奥さんっちゃねぇ! ウチのおばあちゃんば、お膳の支度してるっちゃよー。乗って、乗って!」
「おーいえー!」
まだ戸惑っている稜而の手を引っ張って、遥は真っ赤な軽自動車の後部座席に乗り込んだ。
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