114 / 191

第114話

 遥が元気よく挨拶した声が大教室に響き渡り、一斉に注目を浴びて、如月は二人を連れて研究室へ移動した。 「奥様は元気がいいな」 「はいですのん!」  如月の言葉に遥は素直に頷いて、るんたった、るんたったとスキップして歩く。  ビルの十二階にある如月研究室のドアを開けた途端、足元へ積み上げていた書類が滑り落ちてきて、如月は革靴の先で蹴り飛ばす。 「相変わらずめちゃくちゃだな」 稜而は前髪を吹き上げた。 「遥ちゃんも散らかしやだけど、片づけやでもあるから、ここまで酷くはならないのん」 散らばっているのは書類だけではなく、収まりきらない本が随所に積み上げられ、くたびれた寝袋がたぐまっている。 「俺には何がどこにあるかわかってるから、いいんだ」  如月は脱いだジャケットを放り投げ、ネクタイを引き抜いて投げ出して、オールバックに整えていた髪を手でぐしゃぐしゃに崩すと、一番奥にある事務用椅子に座って足を組み、机の引き出しから取り出したタバコを咥えて火をつける。  足元の書類を避けて歩き、稜而がパイプ椅子に座ると、遥が座る椅子はなく、二人が同時に手で示したデスクの上にぴょこんと座った。 「コーヒーメーカーは使い物にならない」 如月はそう言って、缶コーヒーを配り、缶コーヒーで乾杯してから改めて自己紹介をした。 「奥さん、はじめまして。如月です。稜而が学生時代、発生学の講義を受け持っていた。今もこの甘木医大で発生学の講義を受け持ってる。専門は生殖発生」 「稜而の先生ですのね。渡辺遥ラファエルちゃんですのん。妻です♡」 「渡辺? 入籍してるのか」 如月が右眉だけ上げると、稜而は缶コーヒーを飲みながら答えた。 「戸籍上は兄弟。互いの親が再婚した。でもパートナーだ」 「なるほど。養子縁組でもしたのかと思った」 「養子縁組は、稜而のお父さんとしてるんですのん」 「了解。稜而の親父さんなら、前途ある若者の学費くらい喜んで出すだろうに」 「父さんは出すって言ってるんだ。遥が嫌がってるだけで」 「だって、見たことない金額ですのん。こんな借りを返せる自信はありませんのよー」 遥はポニーテールをぶんぶん揺らして、頭を大きく左右に振った。  遥の姿を見てから、稜而はゆっくり口を開く。 「いくつかの大学を見て歩いて、遥が実感を持ち始めてから、切り出そうと思っていたんだけど」 そう前置いてから、言葉を続けた。 「本音を言うと、遥に東大の気風は合わない気がする。単に俺が現実を見過ぎたのかも知れないけど。遥には、できれば面倒見のいい私大に行ってもらいたい」  二人の話を等分に聞いて、如月は頷いた。 「愛情と金は無尽蔵じゃないからな。他人の愛情と金に後先考えずに寄りかかりたくないという、遥の気持ちもわかる。そして、稜而が可愛い奥さんを大切に扱ってもらいたい気持ちもわかる。……で、東京大学はビッグマウスなのか、どうなのか。実際のところ、どの程度仕上がってる? そもそも数字を取れなきゃ話にならない」 稜而が自分のボディバッグから、遥の模試の結果とバカロレアの結果のコピーを一揃い取り出す。如月はすべての書類に丹念に目を通し、頷いた。 「なるほど。言うだけのことはある。……遥、ウチへ来い。特待生になって、自力で入学金と授業料を稼ぎ出せ」  遥はゆっくり目を見開いて、自分の頬を両手で挟んだ。 「あ……っ、あっちょんぶりけーっ! 特待生ーっ! その手がありましたのーんっ!」 「特待生は毎年、年度末の成績審査と学部長面接の結果で次年度の継続が決まる。入学してからも真面目に続けられれば、卒業まで施設管理費だけでいけるぞ」 「やりますわ。俄然、やってやりますわなのよー! 通学時間片道二五分、通学途中にスーパーマーケットに寄ることもできる! お寝坊できて、遥ちゃんの手料理も食べれますのん! 条件、悪くないのよーっ! むしろ最高!」 「ウチの大学の帰国生入試は九月だ。すぐに願書を出せ」 「おーいえーっ!」 デスクに座る遥は、両手両足をばたばた振り回した。  如月が何ヶ所か内線電話をかけて手配してくれて、稜而が書類を揃え、遥は大学生協で証明写真を撮影して、入試センターで教わりながら書類を記入して、もちろん特待生選考も希望するに印をつけて、願書を提出した。 「はい、ではこの受験票を忘れずに。注意事項をよく読んで、当日は201教室へ直接お越しください」 手続きが済んで、如月の案内で201教室を確認すると、遥の腹がぐうっと鳴った。 「くるくる寿司に参りますのーん! おーいえー! ♪しろくにじゅうし、すしーをたべたい! かいてんずしへつれーていって、わすれられないマグロ・アンド・サーモン! さらがなーがれる……♪」 遥がるんたった、るんたったと駅ビルに向かってスキップし、駆け抜ける猫に「にゃーん!」と呼び掛け、吹き抜けた風にキラキラ光る街路樹の葉を見て進む背中を見て、如月は小さく笑った。 「稜而の妻です♡ な割に、くるくる寿司で喜ぶなんて、安上がりだな」 「どういう意味。俺だってまだ駆け出しだから、二人分の生活費に大きな余裕はないよ」 「いや、お前、もっと派手なタイプが好みだった気がするから」 「それ、遥の前で言ったら、入試も入学も取り消すから。俺は、そういう過去は全部、遥を見た瞬間に忘れて覚えてないからな」 憮然とした表情の稜而を見て、如月は肩を震わせて笑う。 「入れ込んでるな」 「当たり前だろ。そうでもなきゃ、男同士で夫婦関係だなんて公言しないよ。ほかの奴にとられたくなくて必死なんだ。如月がいれば大丈夫と踏んで、願書を出したんだからな。受かったら、卒業までしっかり遥の面倒を見てよ」 「もちろん引き受ける。あいつ、ちょっと目の付け所が面白い。模擬講義のノートを見たか? ぼーっと空を眺めながら、あの内容から鎮痛薬を作れないか、構造式を考えていたぞ」 如月は空中に亀甲模様を描いて笑い、稜而はうんうんと頷いた。 「遥は大咲製薬の会長の孫だから。薬学は関心高いかもね」 「大咲製薬? シップソムの?」 「そう。麻酔薬『シップソム』は、遥のおじい様が、亡くなった自分の息子、遥の父親を思って開発したって聞いてる」 稜而の横顔をちらりとみて、如月は眉をひそめた。 「薬学部へ行かせなくていいのか」 「その話し合いは済んでる。遥はベッドサイドに立ちたいって。おじい様も了承してる。俺も可能な限り手を貸すし、ゆくゆくはウチの病院に入ってもらいたいと思って、話も通してある」 「お前が自分以外の人間に、そこまで深く関わるなんて、珍しい」 如月が笑うと、一緒になって稜而も笑った。 「だからパートナーなんだってば! 遥以外のことは相変わらず、あんまり関心湧かない。この勢いでもっと自分の人間性が変化したかと思ったけど、変化したのは遥に関することだけだった」 「盛大な惚気けだな」 「いいだろ。職場ではクローゼットにしてるし、学生時代の友だちは皆忙しくて、惚気ける相手がいないんだ。その代わり、如月の惚気も聞くけど」 「残念。女を口説いて女の股をのぞく時間があったら、俺は研究費をもぎ取って顕微鏡をのぞいているほうがいい」 「男は?」 「男は懲りた」 「懲りた? どういう意味」 「さあな。遥を見た瞬間に、過去は全部忘れた」 稜而のセリフを真似て笑い、稜而が苦笑して前髪を吹き上げたとき、ちょうど回転寿司店に着いた。 「三名様、すぐにご案内できますってー!」  遥はあとからエスカレーターに乗ってやって来た二人に手を振った。

ともだちにシェアしよう!