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第115話-受験編-

「♪これっくらーいのっ、おべっんとばっこにっ! のりべん、てんぷら、どんっとつーめてっ! さかなのフライと、ぬかづけいれてっ! きんぴらさん、しいたけさん、揚げナスさんっ! しょくちゅうどくよぼうのシートっ♪」 歌ったとおりに弁当を詰め、さらに野菜たっぷりの味噌汁をスープジャーに詰めた。 「♪じゅけんっ、じゅけんっ、たのしいなー! なんでもときます、かんがえてー! みなおし、わすれず、きをつけますっ♪ はいっ! 受験番号1111番、渡辺遥ラファエルですっ! 今日は一次試験! 数学と理科と小論文を頑張るのーん! 受験票オッケー! 筆記用具オッケー! アナログの腕時計オッケー! めずらしくハンカチとティッシュもオッケーなのーん!」 リュックサックにどっかりと弁当を詰め、さらには水筒も詰めて、クリーニングしたてのポロシャツとチノパンというおりこうさんな服装で、髪をきちんと撫でつけて束ねると、サングラスをかけた。 「いってまいりまーす!」 るんたった、るんたったと残暑の残る街を歩き、山手線の運転席のすぐ後ろを陣取って、がたん、ごとーんと一駅、ぴょんと飛び出て、臨海口から大学までリュックサックのベルトを握り、光るビルの反射に目を細めたり、空を見上げたり、街路樹の根元の小さな花を見たりしながら歩いた。 「『甘木医科大学 医学部 特別入学試験(帰国生)会場』おーいえー!」  階段状の大教室で、受験生は五人がけの机の左右の端を使うように指示されている。  遥は机に貼られた番号を探し、窓際の前から三列目に座った。  すぐにサングラスから実用一点張りのウェリントンフレームのメガネに架け替え、リュックサックの中へ手を突っ込んで、受験票と筆記用具を並べ、空いている隣の椅子にどかんっとリュックサックを置くと、身体の向きを横にして、窓に向かう。 「♪まぶっしーい、まぶっしい、おひさまぴかぴか、はるかは、ごきげん! まぶっしーい、まぶっしい、じゅけんがじゅけんが、たのしみなーのよー! とくべつーじゃない、ただのハーフよ、わーたーし、はるかちゃーん♪」 目を細め、脳内に流れる音楽に合わせてぴょこぴょこ身体を揺らしていたら、とんとんと肩を叩かれた。 「机が揺れて気になるんだけど」  空色のシャツを着た短髪の青年は、日本人にしてはやや色素が薄く、ハシバミ色の瞳を遥に向けていた。 「ウア! ごめんなさーい! 受験が楽しみで、ついついはしゃいじゃったのん」 「楽しみ?」 「楽しみよぅ! だって、まだ一度も見たことのない、新しい問題が出てくるのよ!!! しかも大学の先生たちが秘密の会議室で練りに練って、情報漏洩しないように刑務所の中で印刷と製本が行われて、この大学のどこかセキュリティバッチリなお部屋まで警備員さんに守られながら運ばれて、封かんされてしまわれている、そんな珠玉の問題がっ! これからっ、じゃじゃーんって! じゃじゃーんって、目の前に出てくるのよーっ! 素敵だわーっ!」 遥はパアーッと両手を広げ、うっとり目を閉じて、見えない天からの光を浴び、束ねたミルクティ色の髪を振って見せた。 「趣味で受験してるのか?」 「やーん。ちゃんと人生を掛けてますのよ。だからこそのチキンレース! スリリングだわー!」 「人生を掛けたチキンレースな割に、楽しそうだなぁ」  教室には三〇名近い受験生が集まってきたが、賑やかなのは遥だけだった。 「皆さん、とてもおりこうさんで、とても緊張してらっしゃるのん……。素晴らしいわ。武士の精神で、厳かに問題をお迎えになるおつもりなのね。遥ちゃんもそうするわ!」 背筋を伸ばし、正面を向くと、なぜか手のひらを上にして左右の手を重ね、親指の先を触れるか触れないかくらいの距離に保ち、半眼で前に座る受験生の背中を見始めた。  ハシバミ色の瞳を持つ青年は、遥の行動に笑いながら首を傾げたが、何も言わずにシャープペンシルをノックして、きちんと芯が出るかどうかを確かめる。  問題用紙が机の上に置かれた。開始の合図と同時にページを開き、問題用紙と解答用紙の両方に受験番号と氏名を書き込むと、遥は問題を眺め渡して、舌なめずりをした。 「こんな面白い問題を出すなんて、この大学、センスいいのん。全体のバランスも構成もいいわー!」 休むことなく問題を解き続け、二回目の見直しまで終えたとき、合図があって、解答用紙が回収された。 「……なぁ。大問Ⅱの(2)、解二つあった?」 「あったのん。ちょっと引っ掛けてきたわね、見破ってやったわ。こういう問題を大問Ⅱの(2)に持ってくるのも、小粋で憎いあんちくしょうなのん。でも、その手に乗るもんですか、ふはははははは!」 両手を腰に当てて笑っている間に休憩時間は終わり、理科の試験が始まった。 「ふむふむ、こちらは医学部としては一般的なレベルね。大きな冒険はせず、手堅く攻めてきたわ。面白味はないけど、医学部としてのプライドと高潔さが感じられて、コンサバティブで嫌いじゃないのん」 すらすらと問題を解き、丁寧に三回見直して、解答用紙が回収されると昼休憩になり、それぞれが持参した昼食を机に出した。 「はいっ! のり弁、どーん! 水筒、どーん! お味噌汁、どーん! 遥ちゃん、お待たせしましたー! おーいえー!」 どーん! どーん! どーん! と机の上に並べて、ちらりと隣の青年を見ると、曲げわっぱの弁当箱に、桜でんぶの花が咲くご飯と、野菜中心のおかずが彩りよく詰められていた。 「美味しそうなお弁当でらっしゃるのん」 五角形に面取りした美しい里芋が箸に持ち上げられ、薄い唇の間へ消えていくのを見送った。 「サクラサク、合格弁当なのね?」 「兄貴の奥さんの力作」 「素敵な兄嫁さんなのん。ちなみに遥ちゃんの兄嫁さんは、遥ちゃんなのよー! ……さて、遥ちゃんは、遥ちゃんの手作り弁当を食べるのん。遥ちゃん、今日もお弁当を作ってくれてありがとう! どういたしまして、遥ちゃん! 遥ちゃんの手料理は、いつだって遥ちゃんの好みにぴったりのお味で最高なのよ!」 「遥ちゃんの兄嫁さんも遥ちゃん? 同じ名前だとややこしそうだな」 「同一人物だから、ご心配なくなのん」  弁当を平らげ、軽いストレッチをして、手洗いへ行き、洗面と歯磨きで目を覚ましたら、ちょうど小論文の開始時間になった。  問題は二問あって、課題文はいずれも日本語で書かれているが、一問目を日本語で、二問目は願書提出時に選択したフランス語で論述するように指示されていた。 「日本語の課題文は、『多言語共生』は可能か? 遥ちゃんが一昨日練習したばかりの内容が来ましたのん。うしししし」 ざっと構成を決めて、迷うことなく鉛筆を動かしたあと、唇だけを動かして、書いた文章を推敲した。 「……言語文化背景を理解し合い…………、互恵的・創発的に共存することが……。……多言語・文化を盲目的に礼賛するのではなく、……冷静的かつ批判的な視点も……。新たなビジョンの提示が……。ふむふむ、よく書けましたのん。芥川賞を頂けるわ」 一ページ目を埋めて、二ページ目を開く。 「ふむふむ、フランス語の課題文の要旨は『患者の意思決定と家族の関わりについて、日本と自分が過ごした国との違いを、これまでの知識や経験を交えて論述せよ』ってことね。これも練習問題でやったのん。……日本と比べると、フランスは本人の意思がより尊重されるのん。でもでも、フランス人にも家族はいるから、家族に相談することはもちろんあるのよーん。こちらは直木賞ね」  さらさらとフランス語で書き連ね、推敲して、スペルミスを一つ見つけて直したところで、止めの指示があった。 「はあっ、とーっても楽しいペーパーチェイスだったわー!」 遥は両手をぐっと天井に向けて突き上げると、身の回りの物をぽいぽいとリュックサックに放り込んで背負った。 「ごきげんよう! お互いに合格しますように!」 「ああ。ってか、駅まで一緒に……」 遥は誘いの言葉が耳に届くより先に校舎を出て、来た道を順に辿って帰宅した。

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