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第116話
「Monsieur 遥ちゃんの完成なのん! おーいえー!」
土曜日の朝、遥はウェストを絞った濃紺のスリーピーススーツに身を包み、髪をぴったりと撫でつけて低い位置でハーフアップに結い、コンタクトレンズを嵌めた若草色の瞳をまたたいた。
「コンタクトレンズには、もう慣れた?」
朝食の準備と後片づけを買って出た稜而は、パジャマにエプロンを重ねた姿で、遥の若草色の瞳をのぞき込んだ。
「最初はライク・ア・ヴァージンだったけど、もう全然平気なのん」
焦点の合った目で鏡に映る稜而を見て、ドレンチェリーのように赤い唇を左右にきゅっと引いた。
「コンタクトレンズ姿の遥も可愛い」
稜而は遥の頬にキスをして、鏡にはくすぐったそうに肩をすくめる遥の姿が映った。
「面接が終わる頃には、近くのコインパーキングにいるよ」
「おーいえー! ご褒美デート、楽しみにしてるのん! いってまいりまーす!」
「いってらっしゃい。青信号だからって、安易に飛び出すなよ」
「はいなのーん!」
キスを交わし、玄関を出ると、改めて背筋を伸ばした。
「遥ちゃんは、今日は紳士だから、るんたったはしないのよ」
長い脚を颯爽と動かし、大股に歩いて、電車に乗っても運転席の後ろへは行かず、窓の外の景色を眺めて大人しくしていた。
「あの外人さん、カッコイイ」
反対側のドアの前にいる女子高生の群れから視線を送られ、遥は軽いウィンクとキスの音を返して微笑む。
女子高生たちは悲鳴を上げ、小さく寄せ集まってひそひそと何かを話し、互いの肩を叩いては笑って放射状に仰け反った。
「南の海に暮らすふわふわのイソギンチャクみたいで可愛いのん。ゲイじゃなかったら、バラの花を差し出してデートを申し込んだのに、残念ですのよー。アデュー!」
一駅で品山駅に着いて、女子高生たちに手を振り、電車を降りた。
「紳士だから、るんたったはしないけど。でも、面接で初めましての先生に会うのは楽しみだから、ちょっとだけお歌は歌っちゃおうかしら。♪あるきだす、はるかラファエルを、めんせーつかんがー、ずっと、まっているー! えきからは、ちいさーくみえーた、キャンパースだけーど、そそりー、たっているー!♪ 渡辺遥ラファエル敦司です、セックスしようぜー!」
すたすたと階段を上って中央改札を経て、臨海口から外へ出る。朝の陽射しが、周辺のビルに反射して遥の目を刺激し、サングラスを掛けて横断歩道の前に立った。
「お前はファッション雑誌の撮影でもするつもりか」
隣に立った男性に、つまらなそうな声でからかわれて、遥はサングラスを持ち上げウィンクをした。
「はあい、如月。おはようございますですのん」
「如月先生と呼べ」
天地幅の狭いスクエアフレームのメガネの下で、目玉だけを遥に向けてぎろりと動かす。
「入学して、そう呼びたいなって思ったときには、そうするわー」
如月はダークグレーのツーピーススーツを着ていたが、ジャケットは遥と違ってただ羽織っているだけ、ワイシャツの第二ボタンまで外し、ネクタイは折りたたんでワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいた。
「兄弟揃って人を馬鹿にしやがって」
「あらー、呼び捨ては親愛の情なのん。兄弟揃ってお慕い申し上げておりますのよ」
「どうだか」
如月はビル風に向かって頭を左右に振り、風で髪を整えながら、大学までの道を歩いた。
IDカードを勤怠管理用のカードリーダーに読み込ませる如月の横で、入構証を発行してもらって、遥も一緒に研究室へ行く。
「お前、そんなスリーピースでバッチリ決めて、ここにいるってことは、一次試験は通過して、今日は二次試験なんだよな?」
「おーいえー! 受験番号1111番の渡辺遥ラファエルちゃんは、午前一〇時三〇分に受付よ」
相変わらず雪崩を起こす書類を跨ぎ、窓際のデスクへ歩いて行くと、如月は事務用椅子に座り、足元の段ボール箱から買い置きの缶コーヒーを二本出して、一本はデスクに座っている遥に渡した。
「足、開け」
遥の足を左右に開かせ、膝の間から引き出しを開け、タバコを一本取り出すと、口の端に引っ掛けてライターで火をつける。
「あ、いいなー。遥ちゃんも一本くださいなーなのよー」
遥も同じように引き出しから取り出した一本を唇の真ん中に咥えると、如月が差し出してくれた火に先端をかざして吸いつけた。
「Merci.」
二本分の煙が火災報知器へ向かうのを見て、如月はわずかしか開かない窓を開け、初秋の風を取り込んだ。
「一次試験を受けてみて、どうだった?」
「伝統ある私学の医学部らしいコンサバティブな印象だったわ。数学は受験生活最後の打ち上げ花火ってところかしらん。楽しかったのん。ああいう問題を出せるっていうことは、この大学の風通しは悪くなさそう。正直、東大のどの過去問より気に入ったわ」
「入試問題で大学を比べているのか」
「おーいえー。指標なんて何でもいいんだけど、最近一番熱心に取り組んだのが入試問題だったから、基準にしやすかったのん。遥ちゃんが自分で納得して入学するための比較だから、遥ちゃん独自の基準で構わないのよー」
「なるほど」
如月は最後の一口を深く吸ってゆっくり吐き出すと、灰皿にもみ消して、遥に向かって手を差し出した。
「何?」
「整髪料」
「かっちかちのハードワックスを貸してあげるのん。ちょっとやそっとのことじゃ萎えない、素敵なワックスなのよ」
遥は咥えタバコのまま、黒いナイロンのビジネスバッグを探り、整髪料とコーム、消臭スプレー、ヘアフレグランススプレー、ミントタブレットなどを次々に取り出した。
「用意がいいな」
巻き添えでミントタブレットを口に押し込まれた如月は、ワックスを揉みこんだ髪を撫でつけながら、スプレーを振りまく遥の姿を笑う。
「完全無欠な遥ちゃんを目指すと疲れるから、ほかの人の迷惑にならないところで、何か一つだけ悪いことをしようと思って、たまーにタバコを吸うことにしてるのん。でもでも呼吸器内科医の息子が喫煙なんて、よろしくなさそうだから、証拠隠滅には気を使ってるのよー」
「喫煙がたった一つの悪いことだなんて、可愛いもんだ」
オールバックに整えた如月から、整髪料を返してもらいつつ、遥は首を傾げる。
「如月、今日の面接のアドバイスをくださいなー」
「基本的に、医学部の二次試験の面接は、一次試験の成績が当落線上で拮抗しているところへ差をつけるのと、医師にさせたら倫理的に明らかにヤバい奴を落とす、その二点がメインだ。普通にしていたら、まず落とすことはない。いい印象を与えようと無理をするより、悪い印象を残さないように、迷ったら無難なほうを選べ」
「いえっさー!」
「泣いたり、黙り込んだりして、会話が成立せず、本人の話がろくに聞けなかった場合は採点不能、医師を目指す動機が倫理的にヤバいのはNG」
「ふむふむ」
「取り繕った鎧は不要。最低限のマナーと言葉遣いが身についている前提で、あとは素直に誠実に受け答えができていればそれでいい」
「おーいえー」
「お前に関して気になるのは髪型。実際にどうするかは別にして、面接では逆らうな。何か言われたら、『実習までには切ります』と言え」
「『実習までには切ります!』」
「もし面接官の中に知った顔があったとしても、知らないふりをしろ。痛くない腹を探られるのはゴメンだ」
「アイアイサー!」
話しながら如月はワイシャツのボタンを留め、秋空のように澄んだ水色のネクタイを結んだ。一見すると無地だが、光の当たり方によって織り柄が浮かび上がり、華やかな印象を与える。
「センスのいいネクタイなのん」
「昔、稜而にもらった」
「道理で、なのん。遥ちゃんのお衣装も、ぜーんぶ稜而のお見立てよ」
「あいつは実験のセンスはないが、服のセンスはいい」
二人は一緒に笑って、研究室を出た。
「じゃあな、遥。ご武運を」
「如月もお仕事頑張ってねーん!」
先にエレベーターを降りる如月と手を振って別れ、遥は入構証を返却して、受験生受付に向かった。
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